紺色日記

@ohsakacの未推敲の考えごとなど

断片日記Ⅱ

2024.6.XX-XX-...

ある作品を観て、直接ある他者が連想されて、その作品をおそらく観ていないであろうその人に紹介したいなと思ったところで、私は今まで特定の誰かに特定の作品を薦めたことがないということに気付いた。

薦めようと思い、なんて言えばいいのかな?と考え、「あなたと似た人物が出てきたよ」「同じことを言っていた人物が出てきたよ」とか考えたけれど、それって私から見たその人の印象もバレるわけで。そもそも、この作品はあなたに向いているんじゃないかな?と言うこと自体が、私が抱いているその人に対する印象/感じ方を自ら暴く行為にもなる。たとえば、先述した文言とともに薦めて「その登場人物のことどう思った?」とかちょっとでも詰められたら、はわ、、ってなるし。特定の作品を特定の人へ薦める行為って、結構、結構〜〜なコミュニケーションでは?と気づき、ぶわってなった。混乱⭐︎

できそうなときに伝えてみよう。いつか。

たのしい〜!ってノリノリな聴き方をする音楽とは違って、聴いていると内臓までゾワゾワと侵食される感じ。ここ数ヶ月の間に新しく出会ったスキ音楽の多くは前者だったけど、ある日突然後者が現れた。依存性?中毒性がある。中毒性というよりも、しっかり毒で。毎日じわじわと毒に侵されるみたいな。

少し前に、いつか雷みたいな出会いがあれば〜(恋愛)って友人と話したけど、わりとその音楽版である。これが遠い人間による音楽だからまだ良いけど、こういう感覚を抱かされてしまう対象が身近な人間だったらこわいな。

友人との会話を通して、自分は「幼さ」に掻き乱されやすいのかもしれなくて、いやそうかあーってなった。無いし居ないもんなあ、と思いながら、ここにたどり着くまで長かったな、とも思ったし、やはり他者との意見交換のなかでぴんとくる結論のようなものが見えることもあるのだなと思った。

ある映画を再視聴して、この作品には与える側/与えられる側の図式が明瞭な関係性が描かれていたことに気づき、過去と重ねた。 あまりにも捧げられる/与えられると底が見えなくてこわかった。渦中にいると見えないものはある。笠町問題〜。

そして最近の私はちょっと図太くなったと思う。そうなろうと意識している。何(物質という意味ではなく)を与えられても「やったー!さんきゅ⭐︎」で済ます。すこしの図々しさによる円滑コミュニケーションの存在を、友人の話を通して知る。あちこちにありがとうを伝えながら、さらりと軽快に生きてゆきたい。

まだ話したことのない人の文章/ブログを読むためだけにそれが読めるアプリを入れたりする。こわい人間である。

今日は、毒として私の内臓までを侵している音楽をつくっているアーティストの誕生日liveがある日らしい。早く生で聴いてみたいなという気持ちと、実物見たらどうなっちゃうんだろう?と思ってややこわい気持ちと。サブスクで聴くことから離れて映像を見たときから、God/Kingという印象が強い。正直、崇拝してしまう可能性が否定しきれず、危険である。

今の私は、ずっとその音楽/声を聴いているし、聴いていないときも脳内の片隅にその音楽/声がある。ずっとずっと。しかしアーティスト個人に対する感情の甘さは全くなくて、抵抗できない状態のままその音楽の魅力にただただ自分が侵食されているような感覚。完全なる受け身にさせられてしまう。

誕生日live、いつかは行けるかなあ と思いつつ、毎年誕生日liveをするらしい私にとって猛毒なアーティストと同月に誕生日があるのは今後の人生における幸福として受け取っておこう。

何かに夢中になるってこわいことだなと思っていたけど、有無を言わせないような感覚と共に夢中にさせられるのはもっとこわい。でもそのドキドキ、こわさに出会わないルートは選べたとしても選ばないから、結局こういうのを人生に求めてしまう性格ではある。

しかし、対人関係にはこれを求めていないなー(こわさゆえに)と思う。いつか実在の人間に、突風ではなく毒のようなこの感覚を抱かされたら、善し悪しなんて判断できないくらいに感覚的にぐちゃぐちゃになってしまうだろう。形の無いもので、今回はそれが音楽でよかった。

‎Twilight - 踊ってばかりの国の曲 - Apple Music

自分事として呼び方/呼ばれ方問題にとても慎重になっており、至極私的な領域で痛い目を見てからこの点に関してのみごく慎重に生きている自分に笑ってしまう。自主的に気をつけることリストに追加した初めての項目かもしれない。気をつけよう!