紺色日記

fiction.

0622

2024.6.22

f:id:ohsakac:20240623144747j:image

 

午前中、友人とサイゼで少しだけ会った。自分はメッセージのやり取りが続かない人間だが、この友人とはほぼ毎日テキストでのやり取りが心地良く続いている。良い意味での気軽さがある。スマホカレンダーにその友人の名と共に書いていた「チャイ土産本返却」の全てを持たないままサイゼに到着。自分が一番驚いた。

私の30分遅刻により1時間半という更に短い時間。友人が8:50からひとりで観てきたという『ドライブアウェイ・ドールズ』について、私:「どうだった~?」友人:『最高だった......』、「バリアンコラボもすごくいいよね」『ね!他の施設ではなくて、ラブホってところが。女性同士の利用ってなかなか想定されないから』「レズビアンの人々にとってデートムービーにもなるよね」、「私がビアンのひとワンナイしたのもバリアンだった」『一夜なのに結構良い所行ってるな、、笑』「たしかに笑」などと話しながら始まり、さっそく本題へ。

会うのは4月ぶりだけど、「では昨日の続きからいきましょうか」みたいなノリで各々のさいきんを話す。この友人に向けて対面で自分のいまを話していると、内省しているときには自分の内から出てこないけれど確かに自分の内に存在していた視点や言葉、表現がぽんぽんと飛び出して、思考がクリアになる。

私が過去接してきた人々は基本的に、私が自ら誰かに関心を持つという現象をかなり珍しいことだと解釈し(と対面で言われたことがある)、第三者の存在を少しでも話題に出すとそこからがーっと根掘り葉掘り聞かれることが多かった。私の話を聞きたいと思ってくれるのはありがたいのかもしれないけれど、物珍しいこととして探るように掘り下げられるのが私は苦手で、だからあまり第三者のことを友人等と話すということはなかった。

そして、私は稀に第三者のことを話すとき、その第三者の人物像を説明しないままその人と自分の間に生じた現象や感情について語ることが多く、その姿勢で話したら話し相手に「何も掴めない」と言われたこともある。それは自分が意識的におこなっているのか説明が下手なのか分かっていなかったけど、おそらく他者に掴ませないように、単一な解釈に割り当てられないように、わざと行っているのだと思う。

でも、この友人は、私が話す抽象人物について私が語る以上の領域に決して立ち入らない。

友人は線引きをする。私のなかに立ち入りすぎないように。そして、自分のなかに立ち入られすぎないように。それは淋しいものではないし、心理的な距離があるということでは全くない。私たちは近しくてもなお、その線引きが共有できる存在であるということだ。この友人との間にある線引きが自分にとっては非常に心地良くて、その安心感を与えてくれるからこそ、この友人にだけ話せることも多い。(ちなみに私はすべての関係性において線引きを求めているというわけでもない。ここでいう線引きは、この友人との固有の関係性のなかで生まれた、類似のない心地良さと安心感である。関係性によっては、線引きがされずに立ち入られることが心地良い場合もあるだろう。)私はこの距離感で、互いにとっての第三者について話せる人がいることがとてもうれしい。人生において稀である。

そのような雰囲気の中で流水のごとく話す。Aroスペクトラム、zineについて、セクシュアルなコミュニケーション、自分の中の加害性/被害、タトゥー、“ロマンティック”と“デミ”ってなに、広義の好意の表現方法、思いの「重」さ、など。書けることは少ないけど、私側の考えていたことと発話の一部を記録しよう。

Aro的な側面/ロマンティック感情について話す。ロマンティック感情については、少し前まではロマンティックな惹かれとそれを抱かない/抱きづらい人で(※グレーロマはその中間に当たるけれど)感覚の違いは大きくて、噛み合わせることはかなり困難だとどこかで感じていた。でも、私が自分ではロマンティック感情として認識していない感情や好意の表現も、他者から見ればその人の“ロマンティック”の範疇に入る可能性もあるし、受け止め方や解釈は人によってさまざまで自由であるものだから、ロマンティックか/そうではないか と二元化した解釈は、対人関係が前提となる性質上取るに足らない点なのかもしれない と考え方が変化した。(あくまでも自分の認識内のみであり、この考え方を他者に適用するつもりはない)

例えば私の発話を通して語られた感情を他者が「それってロマンティック感情では?」と当てはめたとて、私のなかではそれをロマンティック感情として認識できない。逆もまた然りで、私のなかでロマンティック感情として認識できないものを他者が「ロマンティック感情では?」とその人の内側で当てはめることも阻止できない(し、解釈の押し付けが発生しない限りは阻止しなくても良いと思っている)。対人関係という性質上このように思う。

また、あくまでも最近の私の場合、ロマンティック感情のある/なしよりは、自分はロマンティック感情が“わからない”のかなと思っている。なしではなくて、わからないという基準点。

タトゥーについて。私にとってタトゥーを身近なものとして感じた最初のきっかけがこの友人である。友人のタトゥーについて話す。他者に見せるためのタトゥーという発想が自分の中にはなくて、そっかそういうものもあるよねと思う。私とタトゥーについて話したとき、植物と水のモチーフに対して「それになりたい」という感情を抱き続けているということを他者に初めて話した。友人はそれを普通に受けとめてくれて、それも自分にとって良かった。入れるものについては特に誰にも語らず文章にもするつもりはないのだけど、この友人には話したいなと勝手に思っていたので伝えた。互いに素敵だと言い合った。

・友人の話に出された第三者がもつある側面が私と似ているらしく、『それその人も言ってた!』みたいなやり取りが何度も起きた。確かなことは言えないけれど、私の視点的なものを活用できるところはどんどん活用してほしい。いつでも!

・友人の前で「今回私はいなくなりたくないので、」と言ったとき、そうなんだ!私いなくなりたくないんだ、ってなったので、消えないようにする。消えないためには、対話が必要である。内省や思考ではなくて。

・私のことを話していたとき「映画みたいだね」と言われて、映画をこよなく愛する友人から見て私の人生に映画みたいな現象が発生しているのかと思うとぎゅっとなった。もっと大切に考えたいと思う。(そして私はこの後、映画を観に行くことになる。)

 

私の用事スポットまで一緒に歩いてくれて、会話の途中だけど建物についたので「あ、ここです」と言うと、『じゃあね!またdmで』と友人の発話途中の完全なる切れ端と共に解散となり面白かった。

身体の一部が変わって下北沢へ。下北沢、歩き回っていると「ここも座る場所が少ないスポットだな」と思う。

映画『偶然と想像』を観る前に本屋で時間を潰す。贅沢な時間の潰し方だ。google mapを開くと昔印をつけた日記屋月日が表示されて、ここにあったんだと気付き立ち寄る。結構大きめの都知事選・選挙割をおこなっていて良き。私は月曜日に期日前投票するため適用ならずだったが。また来たい。

そのままB&B。今月の初め頃に友人と来た時とはもう品ぞろえや本棚の組み方が変わっていて驚く。上映開始まで時間がたくさんあるのでゆっくり見て、立ち読みした奥村隆『他者といる技法』の第3章「中間階級・きちんとすること・他者」が私にとってすごくうわわなテーマで欲しくなったけど、文庫本の裏表紙の値段を見て断念。その後吉屋信子『蝶』を発見し、購入。「社会変革」ブックフェアの付箋コーナーに付箋を貼る。直接的な「変革」ではない視点からの「変革」も、と望みながら三冊記入。痕跡となる。まだまだ店内をぐるぐるしたかったがイベントで5時閉店だったので外へ出る。

石ベンチに座って買った本を読む。今日持ってきた友人の日記zine、サイゼで友人に手渡してもらったクィアフェムzine、そして吉屋信子『蝶』。とっても〈女女〉じゃん!で素敵な気分になった。

そして『偶然と想像』。観終えて帰宅した後、「 公開はできないけれども、あらゆるものを差し置いてでも今の感情をそのまま書き残した方が良いと感じたので書く。」という一文を始めとした1000字ほどを書きつけた。以下は公開できるところのつぎはぎ文章である。

ーーー

映画『偶然と想像』。涙が二滴続けて頬を伝ったとき、こんなに泣くことってあるんだと思ってびっくりした。終始、身体を通さないコミュニケーションのエロティックさが追及・描写されている作品であったと思う。会話、想像、声、朗読、自己開示。
魔法と、魔法よりもっと不確かなもの。私は、たとえ魔法が消えた後でも遠くはなりたくはない。魔法を持たない私とあなたを(/も)見ていたい。漠然とした不安のもやもやがその内実を顕した。向き合って。触れやすいところばかり見ないで。そう言われた気がする。
自分の価値を自分では認識できないこと、それでも認識した価値は自分で抱きしめ続けること。難しくても。春樹の旨味部分のテイストが元々濱口竜介作品にはあって、それが特に上手く作用したのが『ドライブ・マイ・カー』だったのだなと思う。
誰かと離れたことによって空いた穴は、他の何でも埋められない。その埋められなさの共有を通して、たとえ二度と会うことが無くても繋がっている。

ーーー

言葉がない。

今朝起きてこの映画や自分をめぐる現象についてまた考えて、思い浮かんだのがこの曲。

‎アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先) - 小沢健二の曲 - Apple Music

小沢健二が若い頃の自分と友人・岡崎京子の関係性を綴ったごく私的な曲。それぞれ歌手・漫画家として若くして人気アーティストであった二人の間で共有していた/できていたものに基づく、同質な部分が非常に多い「盟友」(インタビューより)のような友人同士の関係性と、会話に溢れていたであろう永い夜とその日々。二階堂ふみと吉沢亮による台詞で語られる。二人はペアにならずにそれぞれが独立した存在でありながら、手を取り続ける。

この曲を知ってから数年が経つけれど、副題の「きっと魔法のトンネルの先」の意味がうまく分からなかった。でも今日、これは刹那的な「魔法」の日々を歌った曲であり、そしてその「魔法」を抜けた後の現在も自分たちの関係性を大切にしているのだという背景が見えたように思う。

私も魔法のトンネルの先が見たい。