紺色日記

@ohsakacの未推敲の考えごとなど

理由が説明できない好き という存在

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2024.5.28

長い間アートに縁遠い人間として生きていた。数年前から、私が溢した「そういえば美術館に殆ど行ったことがない」という発言に対して「それはあまり良くないな?」と返答した人に連れられてたくさんの美術館をまわるうちに、分からないまま作品の鑑賞を愉しんだり、同じアーティストの作品を別の展示でも見かけたりすることを通して、本当に少しずつ且つ受動的にだけれど作品の繋がりや自分の好む傾向を探ろうとする(今も非常にin progress)という形での関心が芽生えた。そして現在は一人でも展示を観に行くことを好む人間になっている。

昨年の春、一人旅で訪れた直島の李禹煥美術館にて、作品と展示空間を共有することに対して今までに経験したことのない感覚を抱くという体験をした。衝撃を受ける、沁みる、鎮静される、落雷…など、感覚を形容するにはどれも不適切なようで言葉にはならなかったが、初めての経験だった。他の鑑賞者の存在が目に映らない。

それまでは特定のアーティストの作品を好むという感覚を掴めたことがなかったが、これ以来「分からないけれど、李禹煥の作品は明確に特別に好きだ」ということを自覚するようになった。外観以外の全てが撮影禁止だったため自分の記憶にしか残らなかったけれど、旅から帰った後も忘れられなかった。

そして先程、念願の釜山・“Space Lee Ufan”に訪れた。私にとって今回の旅の最大の目的であり、今は宿泊地のあるソウル行き急行列車に乗っている。ソウル駅まで片道2時間半の移動。私はこれを書いている。

李禹煥の作品の何が好きなのだろう、どうして惹かれるのだろう、ということが、今日作品を再び目の前にすることによって理解できるだろうと予想して、引き起こされた感覚を掴もうとメモを取りながら鑑賞したが、結論としてそれは叶わなかった。 

外の世界を隔絶するかのような高い壁に囲まれた入り口と、天井の一部を窓にして自然光を入れる構造は直島の美術館と同様だった。よい。真っ白な空間に、余白の存在を示す巨大な絵画。 四面を余白と作品に囲まれる。一人で作品に向かい合い自己対話をすることを促される瞑想的な展示空間。

外へ向けた形容と説明をすればするほど、私の内では少しずつズレが生じるようで分からなくなる。ただ、メモした中の「不快なぐるぐるではなくて、静かに思考を促してくれる/流してくれる感じ。循環。」という言葉が一番感覚として近い気がする。

なぜ好きなのか分からない作品たち。なぜ好きなのかわからない人間には遭遇したことないな、と思いながらこの日記を書いている。自分にとって理由のない好きを向ける対象があるということは、とても幸福で稀有なことなのかもしれないと思う。纏まらないながらも感覚の即時的な記録とする。今日訪れた空間も外観以外全て撮影禁止だったため、私のスマートフォンには何も残っていない(好ましい)。生きよう。