紺色日記

fiction.

0708-0710

20240708

部屋の主が戻ったぞ〜って本棚のあちこちで私を呼ぶ声が聞こえるようである。本が水みたいにするすると読める。一冊読み終えた後も私の頭と意識は「まだいけます🙂‍↕️もう一冊」と言うけれど、ほどほどのところでやめる必要があることを今の私は理解しているので、今夜はおしまい。

(読了:安田菜津紀『隣人のあなた 「移民社会」日本でいま起きていること』)

イ・ランのことを考えていたらイ・ランに呟きをrtされて、そこからテンションがぎゅんと上がった。ぎゅんなテンションを外に持っていくのではなく、家の中で抱き続けることにしている。そんな過ごし方をしている。本当に大好きだ、と、好きなアーティストたちに対する「好き」は焦がれるような気持ちで思う。音楽と本と映画は何処へもゆかず、常にわたしの傍にある。

 

20240709

朝目覚めたら4時台で、4時台なのに友人からの通知が来ていた。私は二度寝をして健康時間に再起床し、シャワーを浴びる。自分にとって夏は厄災の季節だと思っているが、 寒い思いをしないまま一日のうちに何度も水浴びができるという点だけは気に入っている。ドトールのモーニングにはギリギリ間に合わなさそうだったので、諦めておにぎり屋さんに行き朝昼ごはんを食べた。このきせつ、炭水化物は重い~(失敗?)

書店に寄って、昨日は置いてなかった『ユリイカ』の折坂悠太特集が置いてあったので購入。大学に向かう電車内でぱらぱらと捲ると、巻頭の写真ページが充実していることと、その写真たちのcuteな折坂悠太の雰囲気に動揺させられてしまった。片耳ピアス。

目に留まって、青葉市子の寄稿文「水ようび」を読む。渋谷で白百合の花束が飛び出たギターケースを背負った折坂悠太とすれ違った青葉市子。読んでそのまま、wi-fiが使えない電車内でyoutubeを開いて「百合の巣」を検索して聴いた。歌詞が載った頁を指で留めてためらいなくデータ通信量を消費しながら、セイレーンの歌声と花に包まれる。

折坂さんが今日もどこかで歌っている。そう思うだけで、荒波にも立ち向かおうと思える。友だちと呼ぶにはだいぶ違う。けれど、完全なる同志だと私は思っている。(『ユリイカ』p.37)

いいなあ、と素直にまっすぐな声が洩れた。わたしが欲望する、友人とは少し違った方向性の(友人の延長線上ではあるのだけれど、今のところ表現が難しい)関係性もこの雰囲気に近いなと思う。この文章を読んだときにも連想された、友情、バディ、盟友、敬愛、友愛…。分からないままに、わたしの対人関係のメインテーマであり続けるものたち。

授業で泉鏡花『高野聖』の精読をした。山奥に棲む妖艶な美女は不思議な力を持っていて、自身の誘惑に負けた男たちを、彼女がその男に飽きたタイミングで動物の姿に変えてしまう。きっと私も動物にされてしまうだろうなと思う。

帰路の電車で英単語帳を開いた。私は英語が話せない・不得手人間である。大学受験の時に使っていた出版元のものとは別の単語帳を今は使っているが、これを使い始めてから単語帳を開くのが苦ではなくなったし、おそらく当時使っていたものより覚えやすさも勝っているという実感がある。受験期には自分に合う単語帳を見つけようってよく聞いていたけれど、世の中に単語帳は溢れていて、大学受験を終えて数年後の今ようやく見つかったのだなと思う。遅いが、見つからないよりは良いはず。

最寄駅に着いて朝とは別の書店(最寄駅付近には書店が4店舗ある)で藤高和輝『バトラー入門』を購入。

帰宅して音楽をかけ、ガパオライスを作って食べながら早速本を開く。前書きからキレキレで、前書きを読み終えたページに「かっこいー!」と記入。読者のテンションを上げて本編へ持っていく鮮やかさ。文章が上手いというのはこういうことなのだろう。そのまま読み進めるので、本日の日記はここまで。

(結果)

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20240710

都合の良い夢を見て、目覚めて虚しくなった。おそらく人と絶えず会い続けることは気質上難しいはずなのに、ひとりでいるときにどこか淋しさを覚える人間になってしまっては、このさき生きづらくなるだろう。友人と連絡を取るなかで「冷麺が食べたい」と言ったら週末の予定が冷麺になった。納涼しよう。気温が上がって寝苦しい(といってもエアコンつけてるけど)日々が始まってから、朝起きると時折身体のどこかにすぐに消える発疹が出る。これは毎年恒例のものである。きっとわたしは夏アレルギー。

少し前に友人に質問されてから嫉妬について考えていて、自分の嫉妬の感情はやや珍しい形なのかもしれないと思った。

わたしの中にはおそらく束縛の欲求や独占欲がない、又は極度に薄いからか、広義の好きを抱いている人から他者との親密な話を聞いたとき、その知らない誰かに対して「いいなあ」とか、たまに「その人すごいな」って思ったりする。目の前の素敵なこの人と、そういう現象の体験を共有できて羨ましいなって。嫉妬心が目の前の人ではなく、それを引き起こした知らない人や、その人も更に突き抜けて引き起こされた現象の方に向く。嫉妬心が「燃え上がる」とか嫉妬で「泣く」といった、よく耳にする表現のように感情が激しいベクトルに動く感覚はわからないかもしれない。

でもポリアモリーの人々の心理として聞く“コンパージョン”みたいなポジティヴな感情は持ち合わせていなくて、わたしの嫉妬はいいな〜の後に心に影がおちる感覚だから、できるだけそういう話を聞くことは避けたいな(ここは多くの人々と同じ?)とは思っている。Helsinki Lambda Club「ミツビシ・マキアート」という曲に “俺も君にそんな顔させたいし” という歌詞があって、それを聴いているときに「わたしの嫉妬の形ってこれかも」ってひらめきつつ。いいな〜と思いながらしゅんとする?そんな感じだ。