紺色日記

fiction.

8月の日記

20240801

マッチングアプリの人と映画『偶然と想像』についてメッセージを交わしながら、この作品を観て真っ先に思い浮かんだ人とはこの映画について話さないままなのに滑稽だなと思う。作品を観て泣いて帰った日を振り返る。こうやって核心に触れることは言えないまま死んでゆくのだろう。そしてそれを表出しないのが私であり、私が愛する私/他者の人間性でもあるのだと思う。

 

20240804

歌集や日記本をゆっくり読むような時間が欲しいなと思いながら、やるべき作業をして自分で作ったご飯を自分で食べて明日のために水出しのお茶を仕込んでしっかりと、消えたいなと思っている。表面を撫でれば美しい生活が続いているのかもしれないがそのまま消えたいなとなるので、わたしは器用なのか不器用なのか。寝つきたくてゲイの方がパーソナリティをしているpodcastを再生する。静かで落ち着いたトーンで語られる「昨日ウガンダの人とセックスして、」という話題に続いて、同じトーンで京都に弾丸旅行に行った時の話が耳に入ってくる。わたしも無目的に京都に行きたいなと思う。生きたいのか消えたいのか。そんなことわかるはずもない。

 

20240810

アプリの人と会った。アプリ経由の人と話すために実際に会うみたいなのは初めてだったけど、今回はアプリ利用の目的が明確だったから特に緊張したりせずに当日を迎えた。その場の人と話すこと。

夜の井の頭公園を散歩する。前に友人と来た時に受けた公園内のルート説明を目の前の人にそのまましたりして、自分は既に都内の何箇所かに人との記憶を棲まわせていることを悟った。話しながら、私の好きな研究者の方と近しい人だと知って驚く。lineかig交換しませんかと言われたので2023年で更新が止まっているigアカウントを伝えて別れた。帰り道、過去にルート説明をしてくれた友人にメッセージを送った。目の前にいる人ではない人に気を取られていたのか。良くないな。いや別にいいか、と思う。アプリの人に言われた「また会いましょう」は社交辞令ではないタイプのものであったようで、次回予定のメッセージをふらふら躱す。そもそも根本のところでは基本的にあまり他者に関心を抱けない人間なのに(*以下記述途切れ)

 

20240812

忙しさとパーティーで覆い隠している感がすごい。今日は良くないタイプの思考の渦に呑まれて、ベッドの上で布団を抱きかかえたりしていてほぼ一日何もできなかった。大丈夫だし生活は続いてゆくし全然平気な状態にしたくて、友人と会ったりなど楽しいけれど、ふとしたときにそのパーティーの布が捲れ上がって小さな穴が顕れると砂袋のようにそこからの出血が止まらなくなって、ひどく苦しいのだった。映画も本も気が向かなくて、ただひたすらに無の時間を過ごす。唯一音楽は聴ける日々だが今日はそれも気が向かずに無為な時間だった。日記本を読みたいなとか思っていたけれど、(*以下記述途切れ)

 

20240813

レポートや研究計画書に押し流されていたが、久しぶりに卒論の作業を進めた。おそらく一ヶ月ぶりくらいだと思う。本文改稿箇所を調べるために初出掲載誌と単行本、全集版を比較する。つまり目を皿のようにして文章を並べて読んでいくので、必然的に二か月ぶりくらいの何度目かの通読が開始された。いつもはこの作業が特段大変に感じて苦手なのだが、今日は一文一文を丁寧に読むことが久しぶりで、ヒーリング作用が起こされて驚く。日々が限界過ぎるのか、私が進化を遂げたのかわからないけれど、とにかくはかどった。

久しぶりに触れたその作品は前に触れたときと全く変わらずそのままの姿で私の前に立ち顕れた。文学作品研究—私の場合作者が逝去している作品の研究は、当たり前だけれど人生が完結している人物について考える営みなんだよねと思う。作品もその作者も流動しない。わたしがいくら変わっても、ただ静かにそこに変わらぬ姿で遺跡のように存在しているのだ。執筆の休止も、突然の逝去もしない。そのことがとても、今の自分には安堵をもたらした。研究計画書を書いて先生とお話ししながら、私は修士課程でも現在卒論で研究対象としている作家の作品を引き続き対象にすることを(暫定的に)決めた。このままいけば、この先数年間はその作家について考え続けることになる。特定の人物が常に頭のなかの一部分を占める数年を過ごすということだ。それって結構エロスな営みだなと思って、そういう日々を送る自分はどんな感覚になるのだろうかとわくわくした。好きとか嫌いとかの感情は関係なしに、ただ一人の故人が頭のなかに棲みつくのだ。

 

20240815

自分視点ではまだ関係性がそこまで深くないと考えている相手に重さのある感情を向けられているということを明瞭に出されると、その重さにおお、と驚きながら、それを差し出すことのできる人物・自己開示ができる人物なのだなというところに自分との差異を感じるのと共に、それをできない型の人々のことを思う。自分も時折するカラッとした「大好き」の応答は健やかなもののように思われるが、そのカラッとした「大好き」で覆ってしまうものがあまりにも多いような気もする。「大好き」は自己開示やその感情の詳細の明示をしなくてよい言葉だ。でも、「大好き」に頼っているとそれしか使えなくなってしまう、自分の感情を開示することへの怯えが強まっていく気もしていて、重さのある感情を出すというのは難しい。だから、受け取った時にはそんなことを思う。

 

20240816

実はここ一ヶ月程いわゆる学術書以外の本を全く読めていない。正確には、読めなくなった。小説もエッセイも、情緒的な面にどの角度から当たってもガラスの破片が含まれるような感覚があり、何も触れていない。映画も観れていない。ただ、論文と学術書を読んでいる。でも少し前に卒論作品の小説を久しぶりに通読しはじめたことは、自分にとって良い感触をもたらしている。

 

20240817

眠る直前に色々と不安なことを考えていたら呼吸が浅くなって、深呼吸しようとしたが希・消滅念慮が意識に浮上して両手で自分の首を軽く掴んだ。エアコンが弱いから調整しようと思い、その行為をやめて起き上がったら僅かな頭痛と吐き気で気分が悪くなったため、「熱中症危ない〜」という思考で他の考えをうやむやにすることにして、お茶と塩こんぺいとうを口に含む。夏はよくない。

 

20240818

もっと自分の心身を自由に使いたい、と思う。外的な要因ではなくて、自分の内面の課題。

久しぶりに これなら今読めるかも、と思った本を見つけて書店で購入した。今までなぜこの作家の文章を読む機会がなかったのだろうと思うような自分に近しい手触りのする文章だった。この本を誰かに贈ってみたいなと思い何人かを思い浮かべるが、結果としての本のプレゼントではなく自分が能動的に本を誰かに贈るときには可能な限り自分のエゴを取り除きたい(あくまでもこれは自分自身にのみ適用される考え方。本を貰うのはうれしい。)と思い、それならばこの本を贈る先は私と似た性格を持っていそうな人物がよさそうだと思い至る。まだ接触したことはないが似た気配のする人を思い浮かべて、いつか会えたらこの本を手渡して「はじめまして」と挨拶をしたいと空想した。