5月の日記③(2024.5.11-16)

2024.5.11

深夜まで『あのこは貴族』『ここは退屈迎えに来て』を連続で観て、朝起きて『はじまりのうた(原題: begin again)』を観た。以前から友人が好きだと言っていて、見よ〜!と気になっていた映画。作中に最高なシーンがあり、そのシーンの音楽も良くて天を仰ぎそうになる。というかそこのシーン巻き戻して3回観た。私がこの作品を配信で観れたのは別の友人の厚意のおかげであり、つながりを感じた。

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最近は自分の映画の観方が少し変化してきていて、家で観るときには家事など何かをしながら観ることが増えた。今まではちゃんと観よう!な気持ちが強かったのだけど、今は緩く半bgmのように観ることにはまっている。内容をしっかり捉えることも大切だし、そういう観方をするときも勿論あるけど、今の私にとっては映画が生活の一部として染みついていることの方が心地良く、良い意味で気軽さが生まれているなと思う。

虫コワな時期の訪れを感じるので何か起きる前にバルサンを使ってみようと決意。無煙タイプのつもりが元祖の有煙タイプを購入してしまったため火災報知器にびびりつつ、植物や借り物を他ゾーンに移動させつつ、で作動させたら、想像以上にしっかり煙が出てきて普通に火事みたいだった。部屋から追い出された人間は卒論関連グッズとiPadをリュックに詰めて自転車に乗り、コメダへ。

コメダでは卒論作品の何度目かの読み直しとメモ書きをした。ページを捲り始めのまだ集中状態に入っていないとき、そういえば「卒論はこの作品にする」と初めに告げた相手は長く共にいた人だったし、作品名を告げた日の次に再会したときには既に、長編であるこの作品を読了して感想を伝えてくれたなと思い出した。「卒論読むのを楽しみにしています」と最初に言ってくれたのもこの人だった。そういうことを思い出して、私が卒論を書き終えたときに私たちがどんな関係性であったとしても、個人的に最初に読んでもらう人はこの人にしようと思った。今の自分はその人と何も交わせる言葉を持ち合わせていないけれど、その状態がこの先長く続いたとしても、もしかしたら結果的に卒論が言葉の代わりになるかもしれない。受け取った誠実さは、私が可能な質量の誠実さで返したい。

 

2024.5.12

深夜3時頃に本を読んでいると、時差大な幼馴染から「深夜にごめん」という言葉とともにメッセージが届いた。届いたスクショ画面の端には21:30の表示があり、なるほど丁度良い時間〜と思う。わりとすぐに返信すると「なんで起きてるのー起こしちゃった?」と訊かれ、軽く経緯を話すと「起きてそのまま本を読むところに教養を感じていいね」と返ってきた。誰にも知られないはずの夜が共有され、褒め言葉の棚ぼたまで落ちてくるという体験。しかし私の読書の一部はあなたの就活と同じではある、と思う。本当はこんなこと思いたくないけれど。

そして、“本を読む=教養”と評された私の生活は自分で思うよりも「世間」から遠く離れた場所に来てしまっているのかもしれないと思った。浮世離れというか。周りの人々はみんな本を読むから感覚が分からないけどどうなのだろう。最近特に自分の立ち位置に敏感に/自覚的でありたいと思うため、非常に引っかかる。ちょこちょこやり取りをして、相手におやすみの挨拶をして、私はまた本に戻った。

噛む/噛まれる作品の記述に従って「肘の内側」を噛んでみる。自分だと腕を曲げた状態でしか噛めないということに気付き、でも作中ではセックスの際に少女が男の肘の内側を噛むから、もしかすると腕を伸ばした状態かなと思う。曲げた状態だと柔らかい肉という噛み心地、伸ばすとおそらく骨っぽい噛み心地。そこには大きな違いがある。 噛むことやその衝動、骨っぽい噛み心地の部位を噛むことと、柔らかい肉の噛み心地の部位を噛むことの違いについてぐるぐる考えたくなったけど、それを考えるのはもっと後の段階で良い。通常モードの私であれば じゃあ躊躇なく噛んでもらえる機会を得よう!という好奇心を振り回してSMイベント等に申込み知らぬお姉様にしっかり噛んでもらってふむふむ成程〜となるところだけど、最近の私は落ち着いているので行動しない。ひとまず皿の目読みで先のテキストへとゆこう。

 

2024.5.13

スパイスカレーを食べて生き延びるのは大変結構だがお金がかさむので控えたいなと反省な日。

ここ数日、セクシュアルなシーンが長い映像をみると気分が悪くまではいかないんだけど、なんかいつもとだいぶ心持が違くて、あれれ?となっている。いつもは無(大体映像みるとき腕を組みがち)なのだけど、今は見るのちょっと嫌だな〜みたいな。たぶん最近セクシュアルな要素の作品を過剰摂取していたせいかなと思う。テキストなので仕方がないのだけど前回のゼミまでの一週間と当日の意見交換で過剰に摂取して、その後自分がやるテキストと映画に向き合って摂取して…という感じが続いていた。私にもセクシュアルな要素の過剰摂取ボーダーラインって存在するんだと思った。心の健やかさを大事にしたい。そしてそういう、研究対象との距離感とか自分の精神の守り方に関する話を、研究している人と話してみたい。明日はまた大学の講義でセクシュアルな要素摂取だ。

 

2024.5.14

眠った4-5時間のあいだに夢を見て、長く共にいた(という表現もなんだか違う気がしてきている。会っていた、が正しいなと思いつつある)人が出てきた。夢の中で髪の毛の質感などが明瞭に再現されており、記憶に沿ってここまで仔細に再現できる他者がいるということに驚く。喫茶店で喫煙席と禁煙席に別々に座っていたら鉢合わせる夢。

午前から大学行って21時帰宅。あまり眠らず外での活動時間が長すぎる。でも、良くない本の後に良い本に出会えて、同時代評の資料も集まったので、結果良しな日だった。社会から浮遊している。

 

2024.5.15

引きこもり宣言してから友人たちとラジオ局(=わたし)みたいな立ち位置でコミュニケーションをとっている感じがしてこれはこれで良い。度々寄せられる、警戒心の強い生物がごろんと横になって見せてくれた腹の柔いところみたいな言葉に、わたしは何処にも行かずに此処から言葉を返す。わたしはわたしの言葉のままで返信しようと思った。

低容量ピルを連続服用するのが3シート目に差し掛かりそうだ。ピルを2シート以上連続服用すると休薬期間がなくなり出血する期間が消え失せるため、生理のない体になる。海外ではごく一般的な使用方法、また日本でも3ヶ月は問題ないと案内されることが多いと知ったわたしは勝手にそれをしている。生理のない体はなんて良いのだろう、という感慨は意外にもあまりなく、むしろこれがわたしのデフォルト身体みたいな感覚である。身体違和とまではいかないもにょっと感がある。

友人たちとのdmでとある企画的なものがふわっと立ち上がるかな〜?上がらないかな〜?みたいな流れになり、みんなで色々アイデアを出し合ってきゃっきゃしていたら、友人から「なんでもしたい なんでもできる」という言葉が出て、わたしはそれを見てとても嬉しかった。そう、わたしたちは「なんでもしたい」し「なんでもできる」!

 

2024.5.16

twitterの使い方をちょっと変えて、というか原点回帰(大袈裟で恥ずかしい)してみていて、なんだかそれが自分にとって良い感じだ。自画自賛だけど私は作品の紹介文を書くのが上手いようで、時折本や映像作品の紹介ツイートとかがちょいバズりする。見られてる〜って思うと、タイトルちゃんと書いて、それなりな文章で紹介?して、みたいなことをしなきゃなのかもという意識が無意識に発生していたらしく、いつの間にか「他者に説明すること」が意識の片隅にある利用スタイルになっていたように感じる。その「説明」意識は感想以外の呟きにも影響を及ぼしてしまっていたと思う。

なので、「他者への説明」を完全に放棄して、わたしにしか分からないことをわたしにだけ分かる形式で断片的に呟くスタイルへと意識的にぐいっとハンドルを切ってみている。他者から見るとなんのこと言ってるのか全く分からないみたいなことを呟く内省の言葉の積み重ねは、昔の、孤独なわたしがずっとやっていたことだった。おそらく独りではない今のわたしが内省の言葉を呟くのは癒しの行為でもあると、今実践していて思う。

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【読了】早乙女ぐりこ『速く、ぐりこ!もっと速く!』

この本を読む限り著者は恋愛至上主義気味で、わたしとはその点でだいぶ異なる価値観を持つ他者である。しかし、わたしと著者は行動がとにかく似ているのだ。根底にあるものは違うんだけど、ポイント毎に行動の一致度が極めて高く、そしてその行動への強烈なセルフツッコミは同じようなことをしていたわたしのことも貫く。阿鼻叫喚な読書体験となった。記念に、珍しくつくっていた後から読んだら何のことか分からない読書メモを載せておこう。

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