紺色日記

書き流しの場

10月ー11月初旬の日記

某日

不調気味で通院したら「ストレスで免疫力が下がっている」と言われたため気晴らしをした方が良く、しかし何をすれば良いのか分からなかった。

友人と並走する形で見ているドラマ『獣になれない私たち』では、ガッキーが行きつけのビアバーで「tap1!」「tap2!」(ここでのtap=ビールの種類/サーバー)と注文し、凄く美味しそうにクラフトビールを飲むシーンが毎度出てくる。そのため、欲求に従って夕方にクラフトビールのお店に行って美味ビールを飲んだ。

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このお店はtap1-12まで週替わりのクラフトビールがあるみたい。

余裕がないから。と後回しにせざるを得ないことがたくさんだ。もし競争型の社会ではなく資本主義にも乗っからずに生きられたら、もし目の前に順位づけされた「タスク」が無ければ、真っ先に考えたい/やりたいことはなに?大切なことはなに?って考えると、本当に遣る瀬無い気持ちになる。

 

某日

夕飯:そぼろ餡大根

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味が美味しくできたので写真を撮った(味は写らない)。冷凍適性があるのか不明なまま冷凍していたカイワレを使ったので引きちぎれている🌱


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熱海くん。本当にわたしもそう思う。

 

某日

友人に突然誘われて美味モーニングビュッフェ→水族館へ。モーニングでは美味スープ(野菜をすり潰したポタージュのような)と削られた生ハムとサラダをたくさん食べた。また同じお店に行きたい。

友人もわたしも多忙な日々に押し潰されそうになっていて、その中で短い時間会えたのはとても救いになった。水族館では色んなことを忘れて目の前で生き物が美しく泳ぐ姿を見ていた。

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・「そういえば〇〇(共通友人)って最近元気かな〜」とふわっと話題にあがり、お互いから見たその人の近況こんな感じっぽくない?を話すと結構安心する。クィア/フェミニスト人脈(?)の世界の狭さは時折良くも悪くもびっくりするが、こうやって血縁者/パートナー関係にない人々同士が互いの消息を気にかけるような緩い関係性があるのは、割と望ましい環境にあるのかなって思う。

・待ち合わせ場所で合流したときと またね~をしたときに友人からハグしてくれて、落ち着きつつも私の中の言語にはこういう形のスキンシップを選び取る感覚がないなと改めて思った。良いなって思うけど自分からはできないみたいな。友人と某タイミングについて話したけど、私はこういう非言語コミュニケーションのタイミングが難しい人間なのだと思う。これに関しては無理せず、引き続き受動的にゆけばよいかと思った。

・帰り道に「あれ、今日のわたし結構自己開示できたかも」と思って、それは友人がわたしが少しずつ自己開示できるような関係性をつくってくれたおかげであり、感謝した。やった~って思った。お昼前に軽やかに解散!

 

某日

・シンボパンのセットドリンクでバタフライピーのハーブティーを選んだら、たくさんの生花が入ったポットが出てきた。綺麗な青紫色。花を食べていいのかな?って気持ちになりながら、まあいいや食べちゃえ〜とお茶と一緒に口に含んでもぐもぐした。自分が花を食べる感触/舌触りに少しぞわぞわ。気持ち悪いとかではなくて、ちょっと禁忌をおかしている気持ちになる。

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インスタを見たらマヒトゥ・ザ・ピーポー/ハシリコミーズ/全感覚祭などに関わりのあるらしいサイケデリック(?)パン屋だった。おいしい。

・少し照れることを言うときに敬語でちょける人はかわいいなと思い、私も無意識にそれをしてしまうなと思った(自分自身の場合かわいさは見出せてないけど)。そういえば坂元裕二脚本作品の登場人物もこの傾向があるけど、これは坂元裕二ismなのか、それとも坂元裕二が想定する人間像に我々が含まれているのか…とか考えて、なんだか秋っぽい。

 

某日

田山花袋『田舎教師』(新潮文庫)を読んだ。

東京で同人活動をするなど所謂「文化的」な学生時代を過ごした文学青年が経済的な理由で田舎の教師になり、田舎のコミュニティの閉塞的な空気に染まってゆくが、それでも長く彼の趣味である音楽や植物採取を手放さずに生きていくという境遇がなかなか他人事ではなく、胸に沁みる。

主人公は作中で終始日記をつけまくっており、好きな女性との別れや闘病などを経験しながらフレンズ最高!(→友人の近所に引っ越してご近所物語スタート)となる流れもおお〜となった。前半は非常に地味だが後半面白くなる という感想がゼミで一致した。

そしてその夜日記帳に、「かれ、幸多かれ、願はくば幸多かれ、オゞ神よ、神よ、かの友の清きラヴ、美しき無邪気なるラヴに願はくば幸多からしめよ、涙多き次の手を以て願はくば幸多からしめよ、神よ、願ふ、親しき、友のために願ふ」と書いて、机の上に打伏したことを思い出した。(p.10)

その長い路を歩く度数は、女に対する愛情の複雑して来る度数であった。追憶が段々と多くなって来た。(p.195)

清三は女の胸に誰が一番深く影を印しているかを探って見たが、どうも解らなかった。自分の影が一番深いようにも思われることもあれば、要するに旨く丸められているのだと思うこともある。(p.197)

「日記なんてつまらんものだ。やっぱり他人に見せるという色気があるんだ。自分の遣ったことや心持が充分に書けぬ位なら止す方が好い。自分の心の大部分を占めてる女のことを一行も書くことの出来ぬような日記なら断然止してしまう方が好い」こう思って筆を断ったのを覚えている。

(中略)

事件や心持を充分に書けぬような日記なら廃す方が好いと言ったが、それと反対に、日記に書けぬようなことはせぬという処に、日記を書くということのまことの意味があるのではないかとかれは考えた。(p.215)

 

某日

CGS主催の井芹真紀子さんのクィア・ネガティヴィティ/クィア障害学の講演を聞いたあと、夜に友人と待ち合わせてサイゼへ。ワインを飲みながら、「今日の講演すごく良かったよね」という話題から始まる。会っていなかった間のことを話した。

私が「最近の良かったことと悲しかったことを教えて」と言って各々話すと、最近の良かったことは友人も私も研究関連の出来事で、うれしさの種類を共有した。立場が違うからとても一枚岩では言えないことだけれど、私たちは研究が大事なのだなと実感した。“良かったこと”を思い浮かべたときに真っ先に出てくるということは自分にとって大きい存在。

自分/たちのことながら、なぜこうやって自分の研究について(たとえ一時だとしても)きらきらと話す若者たちが経済的に苦しかったり、それに伴って体調を崩したり、時間が取れなかったり、という状況に陥らなければならないのだろうか。と思って少し悲しかった。行先に幸あれ。

ふらふらな状態で公園に行って、石段みたいなところに腰掛けた。そのとき私はあまりにも酔っ払いすぎていて、「つめたくて気持ちい…」とか言いながら石段の上に仰向けに寝そべっていたと思う。友人は寝そべる私の横に座るという構図でそのまま話した。

友人が煙草を吸うというので起き上がって一本貰い、並んで煙草を吸った。私はいつも喫煙者の友人たちが煙草を吸うのを初めて見るときにその友人が持っている煙草の銘柄とその銘柄を買う理由を訊くのだが、そういうときは9割私が酔っ払っている状態のため、自分から訊いたのにもかかわらず各友人の銘柄もパッケージも一つも覚えられていない。断片的な口頭の情報だけが記憶に残っていて、でも今日会った友人の煙草のパッケージは覚えやすかったから後でも思い出せると思う。

ブランコに乗って長く話した後、私がスマホを紛失していることに気付いた。友人が電話をかけてくれながら先程歩いた道を戻ると、石段の下の暗く柔らかい土の上で着信画面が光っていた。肝冷え…で反省しつつ、友人が私を改札まで持って行ってくれて、終電までラス1に間に合って帰路。秋の夜は本当に心地良い。

 

某日

市街地ギャオ『メメントラブドール』を読んだ。 

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↑熱海くんの写真みたいに横並びにしたかったのに、やり方を忘れてしまって縦並びに…☆

自分と主人公の属性に重なる点はほとんどなく、普通に見ればわたしにとってこの作品はフィクションなのだが、正直「ちょっと分岐が違えば自分もこういう感じだったかも」の感があり、しっかり他人事としては読まなかったのが不思議な感覚だった。

そして終わり方がとても良い。結末部分を読んで、わたしはこの物語が好きだと思った。

しかし、作中にトランス差別文脈で用いられる言葉が明確な批判の文脈を伴わない形で登場することについては疑問が残る。主人公がシス女性の(と推察される)登場人物に向けて「生物学上女」という言葉を用いる描写があり、ここで敢えてトランス差別文脈で用いられがちな「生物学上女」という言葉を用いる選択を取ったことは、はたしてこの物語にとって適切であろうか?

作者は自身の選書フェアで『反トランス差別ZINE われらはすでに共にある』を挙げており、トランス差別反対の立場であることが窺える。また、作中にはトランス女性の登場人物がいて、彼女の描き方にも(あくまでも私視点では)問題は見られない。本作の終盤で「ホモソジジイ」と呼ばれる人物が苛烈なトランス差別発言をする場面は、書き手/この物語がその発言に対して批判的であることが読者に伝わってくる描き方がされていると受け取った(苛烈なトランス差別発言が出てくることを冒頭でアラート表記することも考えるべきだとは思うが)。

作者のトランス差別に反対する姿勢を踏まえた上で、作中で「生物学上女」という言葉を用いていることに疑問を呈する周囲の人物は一人もいなかったのか?という点を批判したい。自分にとって「良い」と感じる物語の中でこの一箇所が引っ掛かりとなることが、この物語の完成度を脅かす可能性を孕んでいることを惜しく思った。わたしは市街地ギャオさんの作品を今後追っていきたいし、応援したいと思っている。だからこそ。

 

某日

友人たちとの会合。高麗博物館に行って展示を見た。3時間弱ほど滞在してボランティアの方のお話を聞いたり一緒に話したりしていた。入館時と退館時との理解度が全く異なっていて、解説ってありがたいなと思う。

コメダに行き、色々注文してみんなでシェアして食べた。コメダのドリンク以外のメニューはほぼ頼まないので新鮮だった。

偶然わたしと友人の1人が『恋愛社会学』を持ってきていたため、わたしが2人に「今から『恋愛社会学』の6-7ページを読んでいただいて、ここで言われている「密着」概念についての捉え方聞きたいんだけど〜」と言ったら一緒に考えてくれた。やさしい。

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*この日のことは思い出しながら書いているのだけど、なぜかこの日のことがあまり思い出せない…。

 

某日

〈読了:図書館本ズ〉

・竹内康人『韓国徴用工裁判とは何か』

→高麗博物館で知り得たことの復習に。地名と裁判の内容を読むたびに、ボランティアの方による調査結果のパネルが頭に思い浮かんだ。

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・クー・ジャイン/金みんじょん『ダーリンはネトウヨ』

→終始レイシズムとセクシズムを浴びせてくる著者の元彼氏をはっ倒したくなって大変だった。タイトルはとっつき易さからつけたのかも?(原作と同じらしい)だけど、内容は日本で継続的なレイシズムを浴びせられた経験であるから、もう少しタイトルもシリアスなニュアンスを出した方が読みたい層に届きそうではある。

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奥付けに書いてあった文言。

 

某日

・部屋の本をブクログ登録スキャンしていたら、自分が寝る場所から離れた位置に置いてある本ほど未読率が高いということが判明。

・zine『毎日は書けないVol.1』(毎日は書けないVol.1/市街地ギャオ×衿 さやか - 市街地ギャオ×衿 さやか - BOOTH)が届いたので往復書簡から読み始めた。

市街地さんから衿さん宛の一通目初めの「ぼくたちは友人関係を続けてきた年月の割に、会話した回数がかなり少ない方なのではないでしょうか。」という一文に、ぐっと距離を縮められる感覚が引き起こされてびっくりした。首元に近づかれるような感覚。

 

某日

〈読了:YPS横浜ピアスタッフ協会他編『精神障害者が語る恋愛と結婚とセックス』〉

https://x.com/ohsakac/status/1853427751077982466?s=46

呟きの方には書かなかったけど、「お金をかけることなくできるデート」というテーマの章もあって、そこでは金銭面が厳しい状況でも「恋愛」をすることもできるよという当事者の経験の語りがされていて、そういうトピックも扱っている姿勢がよかった。

 

某日

再びのシンボパン。バインミー(美味でリピート)とあんバターコッペパン(その場で挟んでくれる)を購入した。近くの公園で食べた。

眠る前に瀬尾夏美『声の地層』を読み始めた。

はじめの章を読んで、傷を語ること/聞くこと、共有したり共有できなかったりすること、語れなかったことなどについて、それらの空気感が言語化された文章を読んで所々に線を引いた。それらの文章を読みながら久しぶりに自分の性被害のトラウマを思い出して、一瞬かたく目を閉じた。痛みであることは確かなのだが、これを語れるとしたら…と場面や話し相手を想像してみたら、想像がついて、そのことに泣きそうになった。

次の章から被災者の方の語りが収録される。読んでいるというよりも聞いているような感覚になる。それを聞いていると、津波と人々の様子が目に浮かんでとても怖くなってしまった。わたしは被災した経験がないし、海のない県で生まれ育ってその後も海のそばで暮らしたこともないので、そもそも海を見たことさえ数回ほどで、その想像も曖昧だろう。わたしは何に対してこんなにも恐怖を抱いているのだろうか、わたしは怖がる「資格」のようなものを持っていないのに、という感情が湧き起こった。

今書いていても正しさは分からない。読み進めていこうと思う。

 

某日

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。

 

投稿前の近況

・不安と焦燥感に押されてゴリゴリと卒論を進めている。ポモドーロ(25分作業→5分休憩を繰り返すやつ)を久しぶりに試してみたけど、5分休憩の合図にイラっとしてシカト=作業を続行してしまうことが判明。

人によると思うが、わたしにとって作業開始から25分経った頃は集中にちょうど入りかけるくらいの時間らしく、休憩を促されると「今いいところなのに!」と思ってしまう。おそらく作業開始と同時には集中が始まらないタイプ+過集中の傾向がある人間(=わたし)とポモドーロとの相性が悪いのだと思う。

しかし25分毎に注意が惹かれるので、休憩せずとも水を飲むタイミングとして使ったり、伸びをしたり、今何時かの確認&周りを見渡す(閉館していないか/人がいなくなっていないかなど)ことをしたりするというのは良い使い方になるかもしれない。

・11月はさまざまな催しなどがあるので、1か月を通してたびたび文化祭的に過ごしたい。

・糸が切れて沈んでしまったので、映画『詩人の恋』を観て、kossのウェビナーを見て、明日のレジュメを読んで、今日を終える。映画『詩人の恋』の中では、キム・ソヨン『数学者の朝』に収録されている詩が読まれるんだって。🦎🔹