春の記憶 若者が若者の通院に付き添うこと

20240901

先月よく聴いた曲の一つに王OK「Before Spring Ends(在春天消失之前)」がある。これはタイトルにある通り(今年の)春に出された曲で、今年の春に何度も聴いていた。夏の終わりの今再びこの曲を聴くようになった理由は分からないけれど、おそらく夏という自分にとって非常に苦手な期間を乗り越えた季節の節目だからだと思う。再生しながら、悲観的でもなくただ事実をまなざす感覚で、よく生きたなあと背後を振り返るような気分になる。

今年の春について思い浮かべると日中の場面はほとんど思い出せない。一人で夜にお酒を持って近所の公園を散歩し見上げた夜桜の風景ばかりが思い出される。そのなかで一つ鮮明なものとして、弟の通院に同行した記憶がよみがえった。

大人が大人の通院に、若者が若者の通院に付き添うこと、それはもっとあっても良いのではないかと思う。

身体に異変を感じて受診した結果異常は見つからなかったとしても、通院の前後で一緒に食事やお茶を飲みながら話すことで精神的な不安は緩和されるだろう。単に食事やお茶をするだけの予定では、心身の状態を話す直接的なきっかけとはならないから。

弟の通院に付き添ったとき、弟は酷い頭痛が続いて困っていた。私の家族の中で昔から弟は体調不良になると"心配性"になるとよく言われていて私もそう思っていたが、頭痛は心因性の場合も多いと聞くし自分もそういう実感がある。

付き添うことになった理由はよく覚えていないけど、連絡をもらって一緒に頭痛専門の外来を訪れた。理由なんかなくてもいい。ただ不安であるとか、一人では行けないからというだけでも。集合した駅に弟はチャリで来ていて、見た目では分からなかった。見た目では分からないからこそ、と思った。

受付をして待合室のソファに二人横並びで座って待つ。若者二人連れ、しかも頭痛科なのでそういう人は他にはいなかった。

普段両耳に着けているたくさんのピアスを外した状態で検査を受けた結果、特に身体上の異常は見つからずに薬を貰って病院を後にした。「大きな病気が見つからなくて良かったね」と声をかけた。弟は検査を受けたことで安心する傾向にもあるから、お金はかかるけどその点が取り除けただけでも良かった。

その後そのまま解散してもよかったのだが、少し休むことを提案すると弟も珍しくするっと賛成したので、弟のチャリを停めて駅前のカフェに入った。

何を話したのか具体的には覚えていないけど、甘いドリンクを飲みながら、なんでもない話に加えて、頭痛はいつから?/疲れすぎてないか/無理しすぎないように過ごせるといいね とかも話した記憶がある。弟がどう感じているかは分からないが、弟は私が精神的に不調だった期間にも静かに変わらず見守って/接してくれて、だからこそ私が弟にこういった話を振りやすくもなったし、弟に受け取られやすくもなった(かも)となんとなく感じる。互いの成長の影響も大きいけれど。

ドリンクを飲み終えて外に出て、ゆっくり休んで!ともう一度言って解散した。あたたかく良い天気の中チャリに乗って身軽に帰っていく後ろ姿を見て勝手に安心する。直接は言われなかったけど帰路LINEにお礼の一言メッセージが入っていて、精神的成熟を感じてほっこりした記憶がある。後日、頭痛はよくなったらしい。

私の場合、これがもし友人同士なら、通院に付き添う間に一方的に心身の状態を聞くだけではなく相互的に聞き合ったり話す機会にもなるのでは とも思う。もちろん積極的に/相互に話すことが一概に「良い」とも思っていないが、話す契機にはなるだろうなと。

若者が若者の通院に付き添うことはもっとあっていいし、誘われるのもよい。