紺色日記

@ohsakacの未推敲の考えごとなど

0626-0629 眠らない人々の群れの中でひとりになる

いつもは大体その日の夜〜翌日に日記を書くのだが、今回はメモも何も残していなくて思い出しながら書く方式。手がかりはスマホカレンダーのみ。@喫茶店にて。

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2024.6.26

ばいとの後に美容院へ行った日。美容院、前適当に予約して行ったお店が私と全く合わなかったので別の知らないお店を予約。ずっとカットモデルでやってもらっていたお店があるんだけど、近場で良い所があるに越したことはないということで冒険中。

結果、とても良かった。カウンセリングシートという久しぶりに見た形式のものに記入をするとき、なんでも希望書いてね欄に恥を忍んで「会話することが少し苦手です」と書いたらアマプラが見れるタブレットを手渡してくれて、確認に必要な会話以外はドラマ版の岸部露伴(覗かれても大丈夫な絶妙な見やすさだなとしみじみ)を見つつ出してくれたハーブティーを飲んでいたら良い感じの髪型にしてくれた。ちゃんと黒くしたいと言ったらちゃんと黒くしてくれたし。本当にありがたかった。

途中で「かっこいい感じがお好きなんですか?」って訊かれて、あ、私かっこいいって言われたことなかったけど、かっこいいって言われるの好きかも!ってなった。ここに通います。

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その後は『ドライブアウェイ・ドールズ』のレイトショー。自分の籠り期間明けの最終週=6月いっぱいは趣味全振り!と決めているのでいえいな気持ちで観た。立地と平日+時間帯のせいか、劇場には私とクィアみのある容貌の方の計二人のみ。勝手に、俺らで見届けようぜみたいな気持ちになった。ばたばたで書けてない感想はたぶん後で呟くかも?

 

2024.6.27

💫流れ星的

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この日はスマホメモに「ジェルネイル 実践」と記載有り。

 

2024.6.28

気持ちはるんるんしつつも大学についたら二日酔いの気配があり、体調不良としての飲酒量のキャパシティを悟る。大事な経験。へにゃっとしながらゼミを乗り切った後はそのまま大学付近のドラッグストアに寄り、人生で初めて二日酔い用ドリンクを購入(たぶん効いた)。読書会へ向かう。

本を見ようと思って開始時刻15分前くらいに会場に着いたら知っている顔はまだ一人も来ていなくて、ギリギリpeopleの集いなるほどという心境になった。知り合いサイドでは私が一番乗りで、続いて一度会ったことのある方(この会の後勝手に友人という意識へ入りかける)、友人(主催の一人)、友人、知り合いじゃない方が到着。安心感がある。主催(知り合いじゃないサイド)の店員さんに「何度か来てくださってますよね…?」と話しかけられて、おお〜(にこにこ)となった。こういうの初めてだった。受付時「瓶ビールもぜひ」とピンポイントおすすめされたため、数時間前に二日酔いドリンクを飲んだ人間なのにビールをチョイス。欲に流されやすい…。

読書会は緩さが私的にはちょうど良くて、良い会だった。 友人遍歴、人生において対人関係のなかでは友人関係を主軸にしていきたい と言うつもりが 対人関係のなかでは を言い忘れたっぽくてめちゃ熱い人みたいになった気がする。

・最近は広義のクィアな人々の集い(交友関係)又は「普通」多めな雰囲気の所属コミュニティ(大学とか)のどちらかにいることが多いので、クィアなわたし(/たち)と恐らくそうではない人たちが混じった場は新鮮だった。そして、マイナスな意味ではなく世間一般から見ればやはりアウトサイダーなんだなということを改めて自覚した。

・「みなさん軽やか」『いやいや白鳥ですよ、水面下でバタバタ』って友人が答えてたけど本当にそうで、確かに私も「人間関係がさっぱりしていて、自分はそういうふうにできないから羨ましい」とか対面で言われたことがあった。実際は共有できない要素が底にずっとあったから必然的に一定の距離は発生していたのと、その上こうやってしか生きられないだけなんだよね、みたいなところがある。

・めんどうなので言わない とか 言いたくないので躱す の各々実践を目の当たりにして “凄い!”ってなったし、その瞬間(一瞬)だけその(躱さねばならない的な)境遇分かるなと思ったし、わたしもスマートに実践できるまでにたどりつきたい。そしてその実践をすることに慣れている/慣れざるを得ないのだなと思った。それぞれ生きてるって感じだった。わたしはまだまだだ。

・「話したくないことを探られる経験が多い」みたいなことを話して他の人々はあまりなさそうだったという点について。おそらく私は見た目が「変わっ」ていない?派手じゃない?「普通」(とは)寄りだからなのか、内面を割って覗いてみたら「だいぶ変わっている」的な印象を言われることが人生で多かった。そのギャップの大きさも探られ度に関わってくるのかもな〜と思った。『煙たい話』にも 自分にとって得体の知れないもの(存在)はこわい みたいな話あったよねと思う。

・人生初、終電に乗った。しっかり者の私的友人の中での健康担当大臣な友人が私のタイムキーパー的なことをして駅まで送ってくれた。終電ってこんな感じなんだなと思いながら、この友人の声掛けがなかったら絶対しなかった選択だ!と思って、別の人間/世界線の自分を体験したみたいだった。周りの提案をそのときいまいち理解できてなかった(=頭が回っていなかった)し、帰宅後即気絶睡眠したのでこの日この時の自分、これが正解だった。サンキュー友人⭐︎

 

2024.6.29

専門書の批評会に参加。シンポジウムのノリかと思ったら普通に学会で、所属と名前を一人ずつ言う自己紹介があった。色んな学会発表、散々萎縮して参加(聴者)できなかったのに、思いがけず学会参加者デビュー。院生や少しだけ学部生もいたので気持ち的にも大丈夫だった。著者セッションがとても良くて、帰り際にお話しして励まされもして、頑張りたいと思った。

学会参加後は気分は静かに落ち着きながら高揚していて、自分のテンポが♩=60(Lento 基礎練習とか指慣らし的な速さ)くらいになった気がする。疾走していたら名前を呼んで腕を掴まれて、それで立ち止まることができたみたいな。

そしてそれが可能であった/叶えてくれたのが他者ではなくこういう場で発生した現象という非・実体のものなのかと思うと、やはり私はそういう人間なんだなと思い、まあそうやって生きてゆくしかないのかもなと思った。

24時上映終了の映画を観てそのまま24時間営業の喫茶店へ。今日は18時頃の体力が普段の正午くらいの健やかさだったので、いける!と思って実行した。

 

基本的にひとり行動なのとひとりでも愉しい趣味ばかりなこともあって、淋しさという感情を認識できたことがあまりなかった。でも、数ヶ月前によく外で夜まで家に帰らずカフェや公園に留まっていて、その時に「これってさあ、」と思って、これが淋しさという感情なのかなと思った。

眠らない街、ということば。地方にいたときにも私は私の眠れなさを持っていたが、それを誰かと共有することができるという意識は長く持ち得なかったので、このことばは自分とは遠いものだと思っていた。

こうやって、今日この日は眠らないのであろう人々が集う場に居ると、眠らない街の構成要素となっているなあみたいな気分にはなる。

 

他者とあまりコミュニケーションを取らずに空間共有をしたい、という願望が度々起こる。深夜のこの喫茶店はそれに最適な場所だった。客層に若者が多いこと。店員さんの対応が素敵なこと。外が見えること。

…全然淋しくならない。大げさかもだけれど、これがあれば人生結構大丈夫なんじゃない?と思うくらいだった。淋しければここに来て、眠らない人々の群れ中でひとりになればよい。きっとここでひとり泣いても良い。自分に必要なものがまた一つ分かったように感じる。

 

始発まで1時間くらいになって、周りの人々もフードメニューを頼み始めた。寝たいような気もするけど、あと1時間でここを去るのはちょっと惜しいな〜って思っていて、それだけ肌に馴染む場所なのかもしれない。ブルーベリージャムのベーグルサンドを追加注文。美味しい。

ちなみに本3冊:武内佳代『クィアする現代日本文学』と、この本で論じられている作品『ノルウェイの森』と『ジョゼと虎と魚たち』を持ってきていて、論考と本文を見比べながら読むということをしていた。あと日記(これ)と時々音楽。長い夜があっという間に感じた。

人生初の終電に続いてこちらも初めてな始発。新宿駅の最寄線ホームに向かったらシャッターが降りててまだ入れず、手前に人がたくさんいた。こういうシステムなんだね。

そんなこんなで全力疾走していた6月終了。7月は勉強と賃金getな月にする。

⭐︎色んなものや現象を駆け抜けて月の最後に残ったもの:学術モチベ

 

【読了】田辺聖子『ジョゼと虎と魚たち』

韓国版映画を観て好きだなって思っていたけど、原作は読めていなかった作品。先述の『クィアする現代日本文学』で引用されていた部分(写真の箇所)がとても良くて、読みたくなって帰り道に購入。原作は数ページの短編である。

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恒夫はいつジョゼから去るか分らないが、傍にいる限りは幸福で、それでいいとジョゼは思う。

私のあらゆる人間関係に対する基本的な考え方はこれかもなと思った。

ここでいう「傍にいる限りは幸福で」は、“ジョゼは、恒夫が傍にいればそれだけで幸福”という意味と、“恒夫が傍にいる期間、互いが幸福ならばそれで良い”という意味の二通りの解釈とで捉えられると考えており、メジャーかつストレートなのは確実に前者の解釈だと思う。

でも敢えて後者の意味でとれば、それは暫定的な人間関係で生じた、偶発的な幸福を大切にしているということで。人と人が離れたり別れたりすることは仕方がないという諦念と、それでも今はこの関係性を幸福だと心底思う気持ちの共存が、分かるなあと思ったのでした。

結末の描写、隅々まで美しい。