紺色日記

@ohsakacの未推敲の考えごとなど

映画『パトリシア・ハイスミスに恋して』


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夕方、映画「パトリシア・ハイスミスに恋して」を観に行った。

 

この映画が公開されることを知ったときの私は、レズビアンの作家の生涯を描いたドキュメンタリー作品、と理解しており、パトリシア・ハイスミスが『キャロル』の作者であることを知らなかった上に、映画「キャロル」の原作小説が存在することすら知らなかったので、本作の公開日が近づくにつれて未知の情報を次々と知ることとなり、驚きが多かった。(後に、クィアな友人にハイスミス自身のことを少し教えてもらった。前情報として入れた上で観れて良かった)

昨年Netflixにて観た映画「キャロル」は、名作と言われること納得の演者の素晴らしさ、美しさ、そして紆余曲折ありながらも結末はハッピーエンドであるという、女女の物語として甘美で幸せな内容だった。今年のクリスマスにもう一度観ようかな。

 

「パトリシア・ハイスミスに恋して」は、ハイスミスの日記とノートをもとにしたドキュメンタリー調の作品。

ハイスミスの日記やノートなどの一節と、彼女と交流のあった人々のインタビューが挟まれる。インタビュイー達の語りを通して、ハイスミスの姿が浮かび上がってくるのだ。私はこの映画を、「パトリシア・ハイスミスに恋し」た人々(=インタビュイー達)の目にうつる彼女の姿を、インタビューの語りを通して再度実像として映そうと試みる作品だと思った。

 

ハイスミスも利用していたレズビアンバーに通っていたという ショートカットで煙草をふかす女性は、重ねた年齢の分だけ魅力も増えていったのではないかと思うほどに格好良かった。

別の人物の口からは「ドラァグ・キング」という用語が飛び出す。「ドラァグ・キング」は、男性装をし、男性的な振る舞いをする人物を指す言葉らしい。まだまだ知らないことがたくさんある。

ハイスミスについてインタビューを受ける人々の姿を見聞きして(思い返せばこの時点で既にその人々を目の前にして話を聞いているような感覚になっていた)、セクマイの先輩たちだ、と思う。

 

作中で度々登場するハイスミスの日記からの引用は、同時に映される彼女の筆跡の効果もあって、実に私的で湿度が高く美しい文章だった。これを我々が覗き見ていいものか、と思ってしまうほどに。

ハイスミスが写された写真は、それぞれがどのようなタイミングで誰によって撮影されたものなのだろうと気になった。

裸身の彼女が写されたものや、親密な仲にあったとされる顔にモザイクのかかった女性とのツーショット。日記と同じくらい、私的な写真のように思った。

文章はそれがどんな内容でも私的な性質を持つものだと私は認識しているが、私的な性質を持つ写真を見ることってなかなかないのではないかと思って落ち着かなかった(ネガティヴな意味ではなく)。

 

生前のハイスミス自身のインタビュー動画を見ながら彼女の生涯をたどってゆくと、そこにはひとりで生きるセクマイの、ひとりで生きる「女性」の姿があった。ハイスミスは、(彼女のインタビューから)ひとりで生きたからこそ数々の著名な作品を生み出せたように思うが、私は彼女が心底望んでひとりで生きることを選択したようには受けとめられず、そこに淋しさと自らの人生への諦念を感じた。

ひとりで生きるハイスミスに自分を重ねてしまっていた部分があるのと、本当のところは誰もわからないという前提があるので、以下は自分のことになる。

私がこのように感じたのは、私自身、誰かと暮らすことを己のマイノリティ的性質によって諦めようという考えがどうしても消えないからだ。現在ひとりで暮らしているのは愉しいけれど、先の人生を考えたときに、心底望んでそれを選択するのかと考えると、私は本当は誰かと生きる選択をしたいのではないかと思う。それでも、ひとりが好きで、それでも誰かと生きてみたくて、という「面倒」な自分と共に歩むことを望む人など、よっぽどのことがなければ存在しないと思っていて、気づけばひとりで生きていくことになっているのではないかな。

ハイスミスも、選択したというよりは、気づいたらひとりで歩いていた、という形なのではないかと彼女の心情を勝手に想像してしまった。

 

彼女の日記とノートが、昨年出版されたらしい。とてもとても読みたい。

日記を書くということ、詩的で私的な生活の文章。