紺色日記

@ohsakacの未推敲の考えごとなど

村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』


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(2023.10.2 - 10.4)

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』、というタイトルの美しさ。タイトルに内容が負けることなく、寧ろしっかりと呼応しているのが好き。また、単行本の栞の色が「灰」色だということも。

 

痛みは、彼の中に常に変わらずある。ただ今ではそれは潮のように満ち干するようになったということだ。それはあるときには足下まで押し寄せ、あるときにはずっと遠くに去って行く。よく見えないくらい遠くに。自分が東京という新しい土壌に、少しずつではあるが根を下ろしつつあることをつくるは実感した。孤独でささやかではあるが、新しい暮らしがそこに形成されつつあるのだ。名古屋での日々は次第に過去のものに、いくぶん異質さを感じさせるものになっていった。それは間違いなく、灰田という新しい友人がもたらしてくれた前進だった。(p.69)

 

作品の序盤では、主人公「多崎つくる」の過去と現在が書かれる。「つくる」の生活と感情は、そのまま少し前の自分、そして今の自分だった。

(あえて主語を「つくる」/「私」のどちらかを明示しないが、)一つ前に暮らしていた土地での日々が精神状態の悪化を引き起こし、「強風に襲われた人が街灯にしがみつくみたいに(中略)ただ目の前にあるタイムテーブルに従って」行動する日々を送りながら過ごしていた。

前の土地をあとにして移り住んだ東京での新しくささやかな日々は、次第に心身に馴染んでゆく。

そして、前の土地での日々は徐々に過去のものに、遠いものとして感じるようになる。

 

少し前の私は、村上春樹が書く「つくる」のように、「死と近接」していたのかもしれないと思う。自分が気付かなかっただけで。

 

村上春樹は、結局人間は孤独を抱えながら生きていくしかない、ということをいつも示してくれる。

それぞれの人間が、"自分ひとりしか分からないはず" の哀しみや苦しさを、文章にして表すことに非常に長けている。人が孤独を感じたとき、共感者がいるはずのない部分を、しずかに鮮やかに描写する。それは、普段は無意識に抱えている孤独が不意に輪郭をはっきりと見せた瞬間に陥る虚しさの、慰めになってくれる。

 

満を持して、という気持ちでリストの "巡礼の年" を再生し、聴きながらこれを書いた。

〈音楽が中心となる物語ではないが、作中で示されたある特定の曲が作品全体を貫く鍵とされる作品〉というのは、少なくない。

たとえば、村上春樹『ノルウェイの森』における ヘンリー・マシーニの "Dear Heart" 、川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』におけるショパンの "子守唄" (作中には明示されないが、主人公が聴いたCDはおそらく辻井伸行さんのファーストアルバムで、そこに収録された曲が他にも登場する)。

『多崎つくる』におけるそのような存在の音楽は、リスト "巡礼の年" のなかの "ル・マル・デュ・ペイ" だ。

こういった性質の音楽は、主に長編作品を読み終えて物語世界から「置いていかれた」感覚を抱いてしまった自分に、ひとつ繋ぎとめるものとして残ってくれる。現実と物語世界をつなぐものとなる。

よくある言葉で言ってしまえば「余韻」であるが、一度作品を通り抜けた人間にとっては、「余韻」以上のものをもたらしてくれるのだろう。

だから私はいつも読書の途中ではなく、読了後にその類の音楽を再生する。