紺色日記

fiction.

映画『哀れなるものたち』


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『哀れなるものたち』を観た。

帰宅後にパンフレットをぱらぱら捲るとバリバリにフェミニズム批評、セクシュアリティ批評がなされていて、そうだよなあと思う。フェミニズム、セクシュアリティ、資本主義社会への批判…そういった要素が多分に含まれた物語に、ゴシック調の映像美とダークファンタジー要素を混ぜ込んで完璧に創り上げられたこの作品がとても好きだった。

『哀れなるものたち』に惹かれた理由のひとつは、この作品の主人公・ベラが“性欲”と“愛情”を明確に別けている人物だから。

胎児の脳を持ち、保護者的立ち位置の科学者・ゴッドによって家の中に籠もらされ、世間から完全に隔絶されながら育てられたベラには、“道徳”も“社会規範”もない。

だからいわゆる「性への目覚め」を体験した当初は他の家人がいる場でマスターベーションに熱中してしまうし、自分に性的な快楽を多分に与えてくれる放蕩気質な男性・ダンカンに誘われて世界に飛び出す選択もする。

“道徳”がないのと同時に、ベラは“社会規範”も持たない。そして社会一般では“規範”のひとつとして内在化される概念であるロマンティック・ラブ・イデオロギーも持ち得ず、“性欲”と“愛情”を完全に切り離している。

ダンカンはたくさんの女性たちと性的な関わりを持った過去のある人物で、彼のことをベラはセックスが「上手い」人と捉えている。ベラとダンカンは旅行の序盤でセックスに耽るが、その途中のシーンでダンカンはベラに「俺に恋をするなよ」といった言葉をかけ、ベラが「わかった」と返事をする場面がある。この場面での二人にはセックス・パートナーとしての側面が見られ、互いの合意のもとに欲求が叶う関係性となっている。

しかしその後二人の関係は変化し、ダンカンがベラに強い独占欲を抱き始める。放蕩気質だったダンカンは「こんな感情(を向けられること/抱く人物たちが)一番嫌いだったのに」といった心情を吐露しながらも、ベラに声を掛ける男性や、ベラと性的な関係を持った他の男性のことが許せなくなり、男性たちに殴りかかったり、独りで大酒を飲んで嘆き悲しんだりするように。

そして、性的な快楽を自由に愉しもうとするベラに感情を乱された末、ダンカンは、ベラに「結婚しよう」と告げる。放蕩気質で一人の相手に縛られることを嫌ったであろうダンカンは、ベラに出会って独占欲を抱くように変化し、「婚姻」という形式を用いてベラの身体を独占しようとする。

ベラは、「婚約者(過去に自分に「ふさわしい」人と認めた男性)がいるからあなたとは結婚しない」ということ、そして、「あなたのことは愛していない。今だけの快楽だ」という内容の返事をする。

ダンカンを相手にして主体的に性的な関係を持ちセックスを愉しむベラは、セックスパートナーとしては良好なダンカンの存在を認めていたが、嫉妬や束縛の発生と共に二人のバランスは崩れ、そして崩壊した。“性欲”と“愛情”、そして“結婚”を結びつけることを嫌いながら多くの女性たちと放蕩に耽っていたであろうダンカンは、ベラに夢中になったことでそれらの概念を結びつけ、利用しようとするまでに変化してしまったのだ。

ベラの「婚約者」でありゴッドの助手を務める青年・マックスは、物語の終盤でさまざまな経験をして帰宅し、周囲の人物から「売女」とまで言われ蔑まれるベラに「君の体は君のものだから」という言葉をかける。

自身もなお放蕩に耽る気質でありながら、“女性”であるという理由からベラの性的主体性を認めずに「体を売ることは女がやる最低のことだ」と貶し、自身の嫉妬の感情を爆発させてロマンティック・ラブ・イデオロギーを利用しようとするまでに至ったダンカンと、ベラの主体性を何よりも重んじるマックスは、対極の思想を持つ人間として描かれている。

性的な快楽への関心が強く、自身の身体性を自由に操るベラと、ベラにとって「ふさわしい」相手である、“My Body is Mine. Your Body is Yours”の姿勢を見せたマックス。

フェミニスト女性たちの紐帯のみならず、フェミニスト男性の表象も描いてくれたこの作品をとても好ましく思う。