20240907
ゼミの先生から「実習終わったし精進落とし楽しんで〜」というメールを貰った。精進落としの意味を検索して、私生活については何も話してないのに私の印象って一体…(実態とは異なります)と思いつつも、確かに実習期間を通して心が清められた?感じはあったなとも思う。素朴とかピュアというのではなく、雪がれるような感覚を抱く日々だった。
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1日3-5時間睡眠が続いて体力的には辛かったけれど、精神面は健やかで自分が一番驚いた。毎朝、(実習前最後の休日に行った吉祥寺のご飯屋さんで流れていたことから好きになった曲の)cero「街の報せ」を聴き「街の報せを待〜ってる♪」と口ずさみながら通勤していて、つまり精神的な余裕はそんな感じであった。
実習期間の長さと私の性格的にも生徒たちとの関わりはほとんどないだろうと予想していたが、授業で『平家物語』のオマージュ/二次的創作の例として提示したアニメ『平家物語』と映画『犬王』について知っていた子が授業後に語りに来てくれたり、実習生が全校生徒の前で行った講演の私の話を聞いてくれていたという子が「わたし文豪大好きなんです!」と話しかけにきてくれたり、演劇部の公演を見に行ったときにきらきらとした目で「おれまだ入ったばかりだからこんな感じ(サポート的役割)なんですけど、役者志望なんです!」とお話ししてくれたりして、生徒たち彼ら彼女らとのささやかな関わりに癒される日々だった。実習先の演劇部は大きな大会で賞を受賞しているような、いわゆる「強い」部活だったこともあり、オリジナル脚本の素晴らしい公演を見終えてすぐに(東京に戻ったら演劇を観に行ってみよう)という気持ちになった。個人的にも興味が広がって嬉しかった。
最終日のさいごに一つ出来事があって、割とそれで〜完〜のイメージとなったため、雪がれるような感覚では終わらなかったのだが、そのことについて上手く書けないのでそれほど書かないままにしておく。
ただ、珈琲を淹れるという行為は同席する人を5分だけどう?と引き留める理由になる(そしてその5分が1時間に延びることもある)ということ、私はまだほとんど何も知らないという関係性の人から早い段階でその人の深い部分に関わる自己開示をされることが度々あること、などを、その人のスケッチブックに描かれた美しい人物画と風景画、刊行された書物のページを捲りながら、これまでの人生とこれからの人生について思うことを聞きながら、思った。別れ際に「いつかまたこうやって話そう。またね」と言われて、握手に応じて学校を後にした。久しぶりに情緒面があたためられた気持ちになりながらも、きっともう二度と会うことはないだろうと思うと、心の奥底をさらされる営みがその1時間で完結したことに少しの安堵と気楽さを感じた。今の私の手元はもう、他の人々でふさがっているから。
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私は他者からの自己開示を受け取ることはできても、自身の自己開示は不得意な人間であると思う。ごく稀に自己開示をすることができたとしても、今までに自己開示をした相手と上手くいったという感触を得られた経験があまり思い浮かばないような気もする。その点についてはきわめて不器用なのだろうか。だからこうして文章を書き続けているのかもしれない。
20240908
朝7時に目覚めて、今回の帰省で親から貰ったAnkerのスピーカーを点けて音楽を再生する。秋冬に良さそうな美容液とイチジクの香りのボディウォッシュが韓国から届いたので開封する。とても良い香りで夜が楽しみになる。自転車に乗って最寄書店まで行き、予め買おうと思っていた2冊を購入し、そのままベローチェへ。いつものようにルイボスミントティーの大きいサイズを頼んで座席へ行き、本を開く。2週間の非日常の後に、こうやって私の日常が再開されてゆく。
pha『パーティーが終わって、中年が始まる』を少し読んだ。→X
追記: ボディウォッシュを夜に使ってみたら ヴィーナス…となるような香りだった。香水や整髪料とは異なり、お風呂の中で使う物、特にボディウォッシュは後に香りが残らない。だから完全に自分による自分のための香りとして完結する。そのことに癒された。うれしい。
20240909
早起きをして、友人へのお土産ついでに買った自分用のツルヤの柿ジャムを開封する。トーストに塗って食べると甘すぎなくて美味しかった。ジャムは甘すぎて苦手なものも多いけど、これは砂糖!って感じじゃなくて果物の甘さ。
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帰り道にスマホを開くと某マッチングアプリで友人からスーパーライクが届いていた。数が限られた機能であるため、その体の張り方に笑いながらマッチを成立させて「イェーィ🦩🌺」とメッセージを送る。友人は私だと気づかないままいいねしていたらしく(※私は一応加工していない写真を使っている。弁解。)驚いていた。我々は既に現実世界でマッチ/邂逅しているので、マッチングアプリ状況どうですか〜などと話していると、話が派生して美味手料理ホムパ開催(仮)の流れになった。棚ぼた的なのも関係なしにとてもうれしい。
20240910
夏を越え、寒さに強いわたしは今後体調が上がり調子である。これからの時期は元気でも動きすぎないという点に気をつけなければならない。心身の調子が良いときはそれはそれで、うまくいっていないこととのコントラストが明瞭になる。でも、端っこから地道に補修や継ぎ足しをしてゆくことでいつかいい感じになるかもしれない。そう思うことにした。
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光あれ 僕らに咲きたまえ
そう想う時 東京の春の雪
雫となり 友を濡らす
(神秘的/小沢健二)
20240912
ばいと先で「この後何か予定とかあるんですか?ルミネの店員さんみたい!」と独特の褒め方を受け取りつつ、同行者である私自身と共にひとり向かう先は映画と展示であった。
坂 | 川田龍さんの個展"Gallery Collection – RYO KAWADA"... | Instagram
ギャラリーで作品を観ながら、カウンターに置かれた展示作品販売リストの存在に気付く。作品タイトルと値段の横に数点、赤い丸シールが貼られていた。この作品が買えるってことだ、この値段で……と思う。今の私には払うことのできない額だけれど、将来的には支払うこともできそうな額である。
売却が決まった作品は半永久的にそれを購入した人の物になる。もう見られないかもしれない。私にとっては、目の前のこの作品を半永久的に所有できるということ、それを生み出した人のもとから作品が離れるということは、とても不思議な営みであるようにいつも感じる。
おそらく自分は、お金に余裕が生まれたら素敵な作品を購入するような(そういったお金の使い方をする)人間だと思う。絵を買うことを空想するとき、私はまず部屋にその絵を飾る充分な空間があること、著しく保存に向かない環境(飾れるスペースはあっても直射日光が当たる壁になっちゃうとか)ではないこと、という前提が必要であるということを思う。それはわたしがいつか大切な作品を大切にするために、作品を愛する感情ゆえに考える縛りである。ただ、金額じゃないのだ。自分が半永久的に作品を所持するということについて、自分自身が納得できるか、相応しいか、ということ。
20240916
朝からさみしさとかなしみが染みのように広がって、これが普通じゃないか、いつものことだとなだめる言葉が頭に浮かんだ。しかし私はさみしさという感情に馴染みのない性質の人間だったよな、と思い至る。たしか植本一子『こころはひとりぼっち』を読んだときにそんなことを思ったのだから、そのときの私と今の私は少し変わったということなのか?それを読んだのはいつだったっけ……と思いながら駅のホームでこれを打っていたら電車を一本逃してしまって、思考が途切れた。重い身体を引き摺るようにして都立図書館へ向かう。3連休皆勤賞。
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大事な話は横並びでするのがよい。目が合うと泣いてしまうから。目を合わせないままの方が望ましい言葉で伝わることもあるはず。
20240917
用事ついでに新宿紀伊國屋の青土社蔵出しフェアを覗くもめぼしいものはなく、その後さまざまな棚を見ても欲しいと思うような本はなくて(忙殺による感性の危機)、手ぶらで喫茶店に行くのはいかがなものかと思いつつも本を持たずに喫茶店に向かった。
空いていたので窓に面した席を選んで座り、お茶メニューから今回は初めてシナモンティーを頼む。窓から見える下の交差点を行き交う人々を眺めるのが好きだ。前回はミントティー、前々回も確かミントティー、前々々回以前は普通の紅茶だったと思う。選択に無意識の季節の反映を感じる。
飲み物には砂糖を入れない派だが、お茶に入れると鉱石のように光るブラウンシュガーを見たくて途中から少しだけ入れてしまうのが常。写真では伝わらなかった。甘い。
手持ち無沙汰になるかと思ったが、イヤホンもせずに温かいお茶を飲みながら窓の外をただ眺めていると久しぶりに心から落ち着いた気分になれた。落ち着いたところから様々な思考や感情などが浮上してくる。日々に忙殺され失われていたそれらが再び自分の中にあらわれて、情緒的な側面はこういった休息と沈静の機会がなければ意識の中で沈んだままなのだということを悟った。以下はその場で書いた文章。
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卒論で扱う作品の通読を終えて、誰かを愛したとき、その愛に触れることのできるうちはその人を愛することができるけれど、距離を隔てて愛に触れられなくなり暫くすると、その愛は相手に向けたものではなく、自己愛の形となって自分の中に収斂してしまう といった内容の語りに感じ入った。たしかにそうだ、と思う。今まで何度も通読してきたが、まだ特に付箋などはついていない箇所だった。何度読んでも新たな場面の優れた描写に気付かされる。不変であるはずの作品が、わたし自身を映す水面のようにゆらめく幻覚を見せているのであった。
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喫茶店では行動としては本当に何もせず、ただ自分の内で色々と思いを巡らせてはさまざまな感情を抱いたりした。きっとここでは泣いてもよい、という安心感もあった。好きな場所を訪れて安心感を与えられるたび、この先も東京で生きていきたいなと思う。がんばろう。
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2時間ほど滞在した喫茶店を出て、ふと一人でバーに行ってみたくなる。以前から気になっていた一人でも入れそうandたぶん合わないことはないであろう雰囲気のお店に向かってゴールデン街を数分歩く。目当てのお店を外から覗くと、その時は若い男性達が小ぢんまりとしたカウンター席の端と端に座っていた。私が入ればそこに挟まれるしか選択肢がないため、迷うも今回は見送る。一見は敢えて開店と同時に入るべきなのだろうか。また今度。
20240918
朝スマホを開いて偶然、イベント告知(第93回ジェンダーセッション「人は変わる、関係も変わる:自分自身の個別具体的な生について語ること」開催のお知らせ(10.23開催) | 立教大学)が目に入る。そこに書かれている関係性の実践を読んでいると自分の属性が重なって、少し気分が悪くなってしまった。勿論その人々に対して気分が悪くなっているのではない。自分自身の属性に対するフォビアである。それを感じることを抑えられず自然に発生する感情が悲しかった。しかし自分にとって聞いておいた方がよい話ではありそうなので、オンラインで申し込んだ。
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教育実習終了後初となる1日家に篭れる日であった。気付いたら寝落ちして数時間眠るということを2回ほど繰り返して驚いたが、体がだいぶ楽になった。自分に都合の良い夢を見て、目覚めた時の虚しさも特に感じず素直に幸福を感じた。
今日は何もしないぞと思っていたのに、国立映画アーカイブに研究調査のお願いの電話を掛けていた。研究対象としている文学作品が映画化された際のポスターとプレスシートの文章に、原作者の言葉や推薦の文章などが書かれているかという点を調査するためだ。特別閲覧の申請許可が出たので、ここから書類の作成と大学側の先生方の印鑑集めなどが開始されそうな予感。
数日後には上野を散歩する予定がある。しっかりと秋冬になったら、日比谷公園の大きな噴水が見たい。小沢健二さんの曲の歌詞によく出てくるので。
秋を待ってる。
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〈お知らせのような〉
わたしが5年前〜数年間書いていた日記のアカウントに数年ぶりにログインできた(!)ので、物好きな人はお読みください。
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