紺色日記

書き流しの場

9月前半の日記

20240907

ゼミの先生から「実習終わったし精進落とし楽しんで〜」というメールを貰った。精進落としの意味を検索して、私生活については何も話してないのに私の印象って一体…(実態とは異なります)と思いつつも、確かに実習期間を通して心が清められた?感じはあったなとも思う。素朴とかピュアというのではなく、雪がれるような感覚を抱く日々だった。

1日3-5時間睡眠が続いて体力的には辛かったけれど、精神面は健やかで自分が一番驚いた。毎朝、(実習前最後の休日に行った吉祥寺のご飯屋さんで流れていたことから好きになった曲の)cero「街の報せ」を聴き「街の報せを待〜ってる♪」と口ずさみながら通勤していて、つまり精神的な余裕はそんな感じであった。

実習期間の長さと私の性格的にも生徒たちとの関わりはほとんどないだろうと予想していたが、授業で『平家物語』のオマージュ/二次的創作の例として提示したアニメ『平家物語』と映画『犬王』について知っていた子が授業後に語りに来てくれたり、実習生が全校生徒の前で行った講演の私の話を聞いてくれていたという子が「わたし文豪大好きなんです!」と話しかけにきてくれたり、演劇部の公演を見に行ったときにきらきらとした目で「おれまだ入ったばかりだからこんな感じ(サポート的役割)なんですけど、役者志望なんです!」とお話ししてくれたりして、生徒たち彼ら彼女らとのささやかな関わりに癒される日々だった。実習先の演劇部は大きな大会で賞を受賞しているような、いわゆる「強い」部活だったこともあり、オリジナル脚本の素晴らしい公演を見終えてすぐに(東京に戻ったら演劇を観に行ってみよう)という気持ちになった。個人的にも興味が広がって嬉しかった。

 

最終日のさいごに一つ出来事があって、割とそれで〜完〜のイメージとなったため、雪がれるような感覚では終わらなかったのだが、そのことについて上手く書けないのでそれほど書かないままにしておく。

ただ、珈琲を淹れるという行為は同席する人を5分だけどう?と引き留める理由になる(そしてその5分が1時間に延びることもある)ということ、私はまだほとんど何も知らないという関係性の人から早い段階でその人の深い部分に関わる自己開示をされることが度々あること、などを、その人のスケッチブックに描かれた美しい人物画と風景画、刊行された書物のページを捲りながら、これまでの人生とこれからの人生について思うことを聞きながら、思った。別れ際に「いつかまたこうやって話そう。またね」と言われて、握手に応じて学校を後にした。久しぶりに情緒面があたためられた気持ちになりながらも、きっともう二度と会うことはないだろうと思うと、心の奥底をさらされる営みがその1時間で完結したことに少しの安堵と気楽さを感じた。今の私の手元はもう、他の人々でふさがっているから。

私は他者からの自己開示を受け取ることはできても、自身の自己開示は不得意な人間であると思う。ごく稀に自己開示をすることができたとしても、今までに自己開示をした相手と上手くいったという感触を得られた経験があまり思い浮かばないような気もする。その点についてはきわめて不器用なのだろうか。だからこうして文章を書き続けているのかもしれない。

 

20240908

朝7時に目覚めて、今回の帰省で親から貰ったAnkerのスピーカーを点けて音楽を再生する。秋冬に良さそうな美容液とイチジクの香りのボディウォッシュが韓国から届いたので開封する。とても良い香りで夜が楽しみになる。自転車に乗って最寄書店まで行き、予め買おうと思っていた2冊を購入し、そのままベローチェへ。いつものようにルイボスミントティーの大きいサイズを頼んで座席へ行き、本を開く。2週間の非日常の後に、こうやって私の日常が再開されてゆく。

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pha『パーティーが終わって、中年が始まる』を少し読んだ。→X

追記: ボディウォッシュを夜に使ってみたら ヴィーナス…となるような香りだった。香水や整髪料とは異なり、お風呂の中で使う物、特にボディウォッシュは後に香りが残らない。だから完全に自分による自分のための香りとして完結する。そのことに癒された。うれしい。

 

20240909

早起きをして、友人へのお土産ついでに買った自分用のツルヤの柿ジャムを開封する。トーストに塗って食べると甘すぎなくて美味しかった。ジャムは甘すぎて苦手なものも多いけど、これは砂糖!って感じじゃなくて果物の甘さ。

帰り道にスマホを開くと某マッチングアプリで友人からスーパーライクが届いていた。数が限られた機能であるため、その体の張り方に笑いながらマッチを成立させて「イェーィ🦩🌺」とメッセージを送る。友人は私だと気づかないままいいねしていたらしく(※私は一応加工していない写真を使っている。弁解。)驚いていた。我々は既に現実世界でマッチ/邂逅しているので、マッチングアプリ状況どうですか〜などと話していると、話が派生して美味手料理ホムパ開催(仮)の流れになった。棚ぼた的なのも関係なしにとてもうれしい。

 

20240910

夏を越え、寒さに強いわたしは今後体調が上がり調子である。これからの時期は元気でも動きすぎないという点に気をつけなければならない。心身の調子が良いときはそれはそれで、うまくいっていないこととのコントラストが明瞭になる。でも、端っこから地道に補修や継ぎ足しをしてゆくことでいつかいい感じになるかもしれない。そう思うことにした。

光あれ 僕らに咲きたまえ

そう想う時 東京の春の雪

雫となり 友を濡らす

(神秘的/小沢健二)

‎神秘的 - 小沢健二の曲 - Apple Music

 

20240912

ばいと先で「この後何か予定とかあるんですか?ルミネの店員さんみたい!」と独特の褒め方を受け取りつつ、同行者である私自身と共にひとり向かう先は映画と展示であった。

坂 | 川田龍さんの個展"Gallery Collection – RYO KAWADA"... | Instagram

ギャラリーで作品を観ながら、カウンターに置かれた展示作品販売リストの存在に気付く。作品タイトルと値段の横に数点、赤い丸シールが貼られていた。この作品が買えるってことだ、この値段で……と思う。今の私には払うことのできない額だけれど、将来的には支払うこともできそうな額である。

売却が決まった作品は半永久的にそれを購入した人の物になる。もう見られないかもしれない。私にとっては、目の前のこの作品を半永久的に所有できるということ、それを生み出した人のもとから作品が離れるということは、とても不思議な営みであるようにいつも感じる。

おそらく自分は、お金に余裕が生まれたら素敵な作品を購入するような(そういったお金の使い方をする)人間だと思う。絵を買うことを空想するとき、私はまず部屋にその絵を飾る充分な空間があること、著しく保存に向かない環境(飾れるスペースはあっても直射日光が当たる壁になっちゃうとか)ではないこと、という前提が必要であるということを思う。それはわたしがいつか大切な作品を大切にするために、作品を愛する感情ゆえに考える縛りである。ただ、金額じゃないのだ。自分が半永久的に作品を所持するということについて、自分自身が納得できるか、相応しいか、ということ。

 

20240916

朝からさみしさとかなしみが染みのように広がって、これが普通じゃないか、いつものことだとなだめる言葉が頭に浮かんだ。しかし私はさみしさという感情に馴染みのない性質の人間だったよな、と思い至る。たしか植本一子『こころはひとりぼっち』を読んだときにそんなことを思ったのだから、そのときの私と今の私は少し変わったということなのか?それを読んだのはいつだったっけ……と思いながら駅のホームでこれを打っていたら電車を一本逃してしまって、思考が途切れた。重い身体を引き摺るようにして都立図書館へ向かう。3連休皆勤賞。

大事な話は横並びでするのがよい。目が合うと泣いてしまうから。目を合わせないままの方が望ましい言葉で伝わることもあるはず。

 

20240917

用事ついでに新宿紀伊國屋の青土社蔵出しフェアを覗くもめぼしいものはなく、その後さまざまな棚を見ても欲しいと思うような本はなくて(忙殺による感性の危機)、手ぶらで喫茶店に行くのはいかがなものかと思いつつも本を持たずに喫茶店に向かった。

空いていたので窓に面した席を選んで座り、お茶メニューから今回は初めてシナモンティーを頼む。窓から見える下の交差点を行き交う人々を眺めるのが好きだ。前回はミントティー、前々回も確かミントティー、前々々回以前は普通の紅茶だったと思う。選択に無意識の季節の反映を感じる。

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飲み物には砂糖を入れない派だが、お茶に入れると鉱石のように光るブラウンシュガーを見たくて途中から少しだけ入れてしまうのが常。写真では伝わらなかった。甘い。

手持ち無沙汰になるかと思ったが、イヤホンもせずに温かいお茶を飲みながら窓の外をただ眺めていると久しぶりに心から落ち着いた気分になれた。落ち着いたところから様々な思考や感情などが浮上してくる。日々に忙殺され失われていたそれらが再び自分の中にあらわれて、情緒的な側面はこういった休息と沈静の機会がなければ意識の中で沈んだままなのだということを悟った。以下はその場で書いた文章。

 

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卒論で扱う作品の通読を終えて、誰かを愛したとき、その愛に触れることのできるうちはその人を愛することができるけれど、距離を隔てて愛に触れられなくなり暫くすると、その愛は相手に向けたものではなく、自己愛の形となって自分の中に収斂してしまう といった内容の語りに感じ入った。たしかにそうだ、と思う。今まで何度も通読してきたが、まだ特に付箋などはついていない箇所だった。何度読んでも新たな場面の優れた描写に気付かされる。不変であるはずの作品が、わたし自身を映す水面のようにゆらめく幻覚を見せているのであった。

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喫茶店では行動としては本当に何もせず、ただ自分の内で色々と思いを巡らせてはさまざまな感情を抱いたりした。きっとここでは泣いてもよい、という安心感もあった。好きな場所を訪れて安心感を与えられるたび、この先も東京で生きていきたいなと思う。がんばろう。

2時間ほど滞在した喫茶店を出て、ふと一人でバーに行ってみたくなる。以前から気になっていた一人でも入れそうandたぶん合わないことはないであろう雰囲気のお店に向かってゴールデン街を数分歩く。目当てのお店を外から覗くと、その時は若い男性達が小ぢんまりとしたカウンター席の端と端に座っていた。私が入ればそこに挟まれるしか選択肢がないため、迷うも今回は見送る。一見は敢えて開店と同時に入るべきなのだろうか。また今度。

 

20240918

朝スマホを開いて偶然、イベント告知(第93回ジェンダーセッション「人は変わる、関係も変わる:自分自身の個別具体的な生について語ること」開催のお知らせ(10.23開催) | 立教大学)が目に入る。そこに書かれている関係性の実践を読んでいると自分の属性が重なって、少し気分が悪くなってしまった。勿論その人々に対して気分が悪くなっているのではない。自分自身の属性に対するフォビアである。それを感じることを抑えられず自然に発生する感情が悲しかった。しかし自分にとって聞いておいた方がよい話ではありそうなので、オンラインで申し込んだ。

教育実習終了後初となる1日家に篭れる日であった。気付いたら寝落ちして数時間眠るということを2回ほど繰り返して驚いたが、体がだいぶ楽になった。自分に都合の良い夢を見て、目覚めた時の虚しさも特に感じず素直に幸福を感じた。

今日は何もしないぞと思っていたのに、国立映画アーカイブに研究調査のお願いの電話を掛けていた。研究対象としている文学作品が映画化された際のポスターとプレスシートの文章に、原作者の言葉や推薦の文章などが書かれているかという点を調査するためだ。特別閲覧の申請許可が出たので、ここから書類の作成と大学側の先生方の印鑑集めなどが開始されそうな予感。

数日後には上野を散歩する予定がある。しっかりと秋冬になったら、日比谷公園の大きな噴水が見たい。小沢健二さんの曲の歌詞によく出てくるので。

秋を待ってる。

‎sk🐋の秋待ち - Apple Music

 

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〈お知らせのような〉

わたしが5年前〜数年間書いていた日記のアカウントに数年ぶりにログインできた(!)ので、物好きな人はお読みください。

→|♨️|番台

 

 

8月の日記

20240801

マッチングアプリの人と映画『偶然と想像』についてメッセージを交わしながら、この作品を観て真っ先に思い浮かんだ人とはこの映画について話さないままなのに滑稽だなと思う。作品を観て泣いて帰った日を振り返る。こうやって核心に触れることは言えないまま死んでゆくのだろう。そしてそれを表出しないのが私であり、私が愛する私/他者の人間性でもあるのだと思う。

 

20240804

歌集や日記本をゆっくり読むような時間が欲しいなと思いながら、やるべき作業をして自分で作ったご飯を自分で食べて明日のために水出しのお茶を仕込んでしっかりと、消えたいなと思っている。表面を撫でれば美しい生活が続いているのかもしれないがそのまま消えたいなとなるので、わたしは器用なのか不器用なのか。寝つきたくてゲイの方がパーソナリティをしているpodcastを再生する。静かで落ち着いたトーンで語られる「昨日ウガンダの人とセックスして、」という話題に続いて、同じトーンで京都に弾丸旅行に行った時の話が耳に入ってくる。わたしも無目的に京都に行きたいなと思う。生きたいのか消えたいのか。そんなことわかるはずもない。

 

20240810

アプリの人と会った。アプリ経由の人と話すために実際に会うみたいなのは初めてだったけど、今回はアプリ利用の目的が明確だったから特に緊張したりせずに当日を迎えた。その場の人と話すこと。

夜の井の頭公園を散歩する。前に友人と来た時に受けた公園内のルート説明を目の前の人にそのまましたりして、自分は既に都内の何箇所かに人との記憶を棲まわせていることを悟った。話しながら、私の好きな研究者の方と近しい人だと知って驚く。lineかig交換しませんかと言われたので2023年で更新が止まっているigアカウントを伝えて別れた。帰り道、過去にルート説明をしてくれた友人にメッセージを送った。目の前にいる人ではない人に気を取られていたのか。良くないな。いや別にいいか、と思う。アプリの人に言われた「また会いましょう」は社交辞令ではないタイプのものであったようで、次回予定のメッセージをふらふら躱す。そもそも根本のところでは基本的にあまり他者に関心を抱けない人間なのに(*以下記述途切れ)

 

20240812

忙しさとパーティーで覆い隠している感がすごい。今日は良くないタイプの思考の渦に呑まれて、ベッドの上で布団を抱きかかえたりしていてほぼ一日何もできなかった。大丈夫だし生活は続いてゆくし全然平気な状態にしたくて、友人と会ったりなど楽しいけれど、ふとしたときにそのパーティーの布が捲れ上がって小さな穴が顕れると砂袋のようにそこからの出血が止まらなくなって、ひどく苦しいのだった。映画も本も気が向かなくて、ただひたすらに無の時間を過ごす。唯一音楽は聴ける日々だが今日はそれも気が向かずに無為な時間だった。日記本を読みたいなとか思っていたけれど、(*以下記述途切れ)

 

20240813

レポートや研究計画書に押し流されていたが、久しぶりに卒論の作業を進めた。おそらく一ヶ月ぶりくらいだと思う。本文改稿箇所を調べるために初出掲載誌と単行本、全集版を比較する。つまり目を皿のようにして文章を並べて読んでいくので、必然的に二か月ぶりくらいの何度目かの通読が開始された。いつもはこの作業が特段大変に感じて苦手なのだが、今日は一文一文を丁寧に読むことが久しぶりで、ヒーリング作用が起こされて驚く。日々が限界過ぎるのか、私が進化を遂げたのかわからないけれど、とにかくはかどった。

久しぶりに触れたその作品は前に触れたときと全く変わらずそのままの姿で私の前に立ち顕れた。文学作品研究—私の場合作者が逝去している作品の研究は、当たり前だけれど人生が完結している人物について考える営みなんだよねと思う。作品もその作者も流動しない。わたしがいくら変わっても、ただ静かにそこに変わらぬ姿で遺跡のように存在しているのだ。執筆の休止も、突然の逝去もしない。そのことがとても、今の自分には安堵をもたらした。研究計画書を書いて先生とお話ししながら、私は修士課程でも現在卒論で研究対象としている作家の作品を引き続き対象にすることを(暫定的に)決めた。このままいけば、この先数年間はその作家について考え続けることになる。特定の人物が常に頭のなかの一部分を占める数年を過ごすということだ。それって結構エロスな営みだなと思って、そういう日々を送る自分はどんな感覚になるのだろうかとわくわくした。好きとか嫌いとかの感情は関係なしに、ただ一人の故人が頭のなかに棲みつくのだ。

 

20240815

自分視点ではまだ関係性がそこまで深くないと考えている相手に重さのある感情を向けられているということを明瞭に出されると、その重さにおお、と驚きながら、それを差し出すことのできる人物・自己開示ができる人物なのだなというところに自分との差異を感じるのと共に、それをできない型の人々のことを思う。自分も時折するカラッとした「大好き」の応答は健やかなもののように思われるが、そのカラッとした「大好き」で覆ってしまうものがあまりにも多いような気もする。「大好き」は自己開示やその感情の詳細の明示をしなくてよい言葉だ。でも、「大好き」に頼っているとそれしか使えなくなってしまう、自分の感情を開示することへの怯えが強まっていく気もしていて、重さのある感情を出すというのは難しい。だから、受け取った時にはそんなことを思う。

 

20240816

実はここ一ヶ月程いわゆる学術書以外の本を全く読めていない。正確には、読めなくなった。小説もエッセイも、情緒的な面にどの角度から当たってもガラスの破片が含まれるような感覚があり、何も触れていない。映画も観れていない。ただ、論文と学術書を読んでいる。でも少し前に卒論作品の小説を久しぶりに通読しはじめたことは、自分にとって良い感触をもたらしている。

 

20240817

眠る直前に色々と不安なことを考えていたら呼吸が浅くなって、深呼吸しようとしたが希・消滅念慮が意識に浮上して両手で自分の首を軽く掴んだ。エアコンが弱いから調整しようと思い、その行為をやめて起き上がったら僅かな頭痛と吐き気で気分が悪くなったため、「熱中症危ない〜」という思考で他の考えをうやむやにすることにして、お茶と塩こんぺいとうを口に含む。夏はよくない。

 

20240818

もっと自分の心身を自由に使いたい、と思う。外的な要因ではなくて、自分の内面の課題。

久しぶりに これなら今読めるかも、と思った本を見つけて書店で購入した。今までなぜこの作家の文章を読む機会がなかったのだろうと思うような自分に近しい手触りのする文章だった。この本を誰かに贈ってみたいなと思い何人かを思い浮かべるが、結果としての本のプレゼントではなく自分が能動的に本を誰かに贈るときには可能な限り自分のエゴを取り除きたい(あくまでもこれは自分自身にのみ適用される考え方。本を貰うのはうれしい。)と思い、それならばこの本を贈る先は私と似た性格を持っていそうな人物がよさそうだと思い至る。まだ接触したことはないが似た気配のする人を思い浮かべて、いつか会えたらこの本を手渡して「はじめまして」と挨拶をしたいと空想した。

流れ星と邂逅(下津光史 Back to My Loots)

20240809(-0811)

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何かを狂おしく想うことはありますか?"狂わされる”というのは、感情のみではなく既に定型化していた自分の生活を崩されて再構築させられることでもあるとわたしは感じている。それを他者によって創造された作品/存在にされるのはとても好い気持ちになって、更に執着していく。生活に現れて猛毒のように入り込んだ音楽。このように適切な距離感を保ったまま幸福に執着できる存在があるということ、それによって自分の中の新たな面が引き出されること、自分の「いつも」の選択が切り崩されて綻びが生じること、純粋にそれを浴びる瞬間が快感であること、そのすべてが心地良く、私はこれにこの上ない幸せを感じます。

一点の曇りもなく愛していると思える存在/音楽に出会えてよかった。人生の節々で「生きてるうちに会いましょうね」を繰り返せたら、よい。

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以上は音楽イベント"下津光史 Back to My Loots"に向かう前と終えた後に繋げて書いた文章。

 

昔から私は本当に好きな人物を語るときにその名前を隠してしまう癖がある。好きな作家、好きなミュージシャン、好きな作品など。本当に好きなものを自分の外側に出すことでその大切さが傷付けられてしまったら、という可能性が怖いのだと思う。しかしそろそろそこから脱却してみたいとも思っていて、今回はみぞみぞしながら覚悟を決めてタイトルから名前を入れてみた。下津光史さん。

私の生活パートナー・Apple Musicによれば、私は平均して月に4000分程彼の歌声を聴いているらしい。均すと約1日2時間のペースで日々聴き続けている。朝目覚めてすぐlive映像を再生して移動中はイヤホンで聴き、夜には曲を聴きながら歌詞集を眺めて眠るといった、おはようからおやすみまでみたいな日も度々ある。血肉だ。でもまだliveに行く機会は訪れていなくて、彼の存在を自分の目で見るのは今回が初めてだった。一度抽選で落ちて先着販売でチケットを取った。前日まで会場は同施設内のliquidroom(キャパ1000人くらいらしい)だと思っていたから、当日行く前に下津さんのigストーリーで本当の会場・liquidroom同施設内のTime Out cafe&dinerのこぢんまり感と近さを知ってひどく驚いた。座席数はたぶん80席くらいだったのではないかと思う。

会場はミュージックバーってこんな感じなのかな~(まだ行ったことない)という空間。わくわくしながら入場スタンプを手の甲に押してもらって、前から二列目の中央辺りがまだ空いていたので席を取った。

ドリンク列に並んでいるとレゲエっぽい洋楽がスピーカーから流れたので音の方向に首を向けたら、レコードプレイヤーの置いてある場所にぬるっと下津さんが居て、レコードをかけながら「ビールすすみそうな曲、かけときます☆」とマイク越しに喋って再度去って行った。まだ開場時間よりだいぶ前なのに凄くしれっと登場する形での初邂逅を果たした私はとてもびっくりして、おそらく何らかの声を漏らしていたと思う。そしてそのぬるっと登場に他の観客は驚いていない様子だったことにも驚いた。客層は今までに参加したどのイベントよりも不思議に感じた。

事前情報がかなりふんわりしていて具体的な内容が分からないイベントだったから、下津さんの音楽ルーツとなるレコードをたくさん聴きながらお酒・ダンス・音楽・語りをゆるゆるとする場なのかなと勝手に想像していたけど、実際には歌ってくれる時間もとても多くて liveじゃん〜となった。

二列目という座席は見上げればすぐに彼の実体が目の前にあって、でも歌声とフォークギターの音色はマイクを通してスピーカーから聴こえて。ずっと画面越しに大きな会場で歌う姿と音を見ていた人が目の前にいて、今自分のいる空間はその音だけに支配されていて。当然、現実味を抱けない。

私は好きな創り手(作家、映画監督、ミュージシャン等全般)に出会うとその人の内面や思考を知ることのできる限りインストールしたいという欲求がぐわっと湧いて、過去のインタビュー、文章、古いブログ等まで遡り、読めるもの/見れるものは全てに目を通す。普段あまり人に関心を抱けない性質を持っているらしい私にとっては、自分の中に執着や燃えて焦がれるような手触りの“好き”が顕れる唯一の瞬間だと思う。下津さんに対しても強い引力でそれを感じていた。今回のイベントにも関連するだろうという思いもあり、過去のインタビューで彼のルーツとして挙げられていた楽曲や彼が作成したプレイリストに入っている曲は事前に聴いてみたりもしていて、Fishmansの「ナイトクルージング」やくるりの「ロックンロール」はそれを機に好きになった。

自分の目の前に立つ下津さんを見ていると、その実体としての側面—ギターを弾く指、体の動き/タトゥー/体幹/表情 などのフィジカルな細部にどうしても注目してしまって、後で二杯目のお酒を取りにカウンターへ行った際に一番後ろ(といっても近いし人が少ないので視界良好)の立見ゾーンに立って見たときの方が確実に音楽そのものにのみ感覚を集中させることができたように思う。実体に注目することが悪い訳ではないけれど、私はその間 なんかすみません!ってどこかで思っていたので、そんな感じだったのだと思う。他アーティストのliveを見に行くと この身体/実体からこんなにパワーのある歌声が出るのか~と思うこともあったけれど、下津さんは本当にまっすぐにするりと身体から歌声までが繋がっているように感じて、身体がそのまま声を響かせるうつわ/楽器なんだなって思った。綺麗だ。35歳ということで、私も体幹しっかりさせてこんな35歳になりたいなどと思う。

語りの中で「僕の音楽の始まりは人に聴かせたいとかではなくて、川の流れとかそういうところから来ている」というような言葉があった。あと「僕多動なんですけど、」という話もあった。そういう言葉の端々から、いま彼がルーラーとして支配するこの空間は社会の中心部/世間から少し浮遊したところにあって、それは私にとっては肌に合い、幸福で、とても安心する場でもあるのだと思った。色々と繋がり、繋がる感覚がある。

下津さんがくるりの「ロックンロール」をカバーして歌っている途中で、大きめの地震が発生した。観客全員のスマホが一斉に警報を鳴らしたけれど彼の音楽の前でその音は聴こえなくて、バイブレーションで皆気付いたと思う。その瞬間歌とギターが止められて、暫く皆の警報音が響いた。揺れが収まって、地震やね のやり取りの後にギターが再開されて「何かあったらすぐ逃げよう!」と言われた。「何かあったらすぐ逃げよう」という言葉は地震という現象下で言われたものだけれど、好きな人物にこれを言われると人生のすべてに対する適用/救われる感情みたいなものが胸に生まれて、勝手ながらじんとなった。

先述したように私は立見で見るのがしっくりきて、そのスペースに少し長居しながらゆらゆら身体を揺らして聴くのがとてもよかった。私は好きな音楽と共に踊ってしまうタイプらしい。「orion」の“指でなぞって”の歌詞と一緒に、宙に指をなぞらせた。

Fishmansのレコードなどをかけて良い音響で聴きながら、私の好きな唄歌いが(私も)好きな音楽についてとても楽しそうに語っている。好きなアーティストが音楽大好き!ってなっているところを見られるのは本当に嬉しいし、好き×好きで幸福極まれり、だった。

イベント終了後には販売されたポスターへのサインの時間が発生し、初邂逅がこの距離感の現場か…とびっくりする。ポスターを持って並ぶと下津さんがサイン会のbgmにと細野晴臣の「HOSONO HOUSE」のレコードをかけてから一度はけて、私はこの面白い音遊び満載のアルバムがとても好きなので、うわ最高~の気分で天を仰ぐ気持ちになった。列に並びながら一人るんるん歌いゆらゆらしていた。最高の音響と初めてのレコードで聴く「福は内 鬼は外」のイントロは本当に最高で、これを選んだのが下津さんだしこれからサインだしですべてに良いぞわぞわをした。続く「住所不定無職定収入」にるんるんしながら、将来絶対にレコードプレーヤーと良い感じのスピーカーを買うぞと固く誓う。

自分の前方に並んでいる人の一部は握手をしてもらったりハグしていたり写真を撮ってもらったりもしていた。が、私は若い女性(見る限り少数だった)だからっていうちょっと良くないし悲しい自意識と、今後の生活がままならなくなる可能性を危惧して「大好きです!」とだけ伝えることとした。いわゆるロマンティック方向の“推し”感情みたいなものは持ってないと思うのだけれど、私の人生の中で流れ星のようにきらきらと輝き続ける存在に近付きすぎると、私自身が燃やされ焦がされてしまいそうだと思う。「大好きです!」を伝えると「ありがとうございます!」ととても爽やかにライトに受けとめてくれて、それがとてもよかった。音楽とその創り手に対して一点の曇りもなく「大好き」と思えて、それを伝えられることは幸せだと思った。

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翌日は一日ぼーっとしていた。頭のなかに残っている歌声をなぞるように曲を聴いたり、レコードで聴いた曲を再度聴き直したり。ひたすらに好きで、好きだなって思えることの幸福に浸っていた。流れ星のような存在に実体として邂逅して、その輝きを目の前で見て、きらきらが胸に刺さって抜けない。そんな感覚だった。きっとこの距離感で今後邂逅する機会は少ないと思う。そして、きっとこれからも下津さんの歌声を聴いて救われたり、泣いたりするのだろうと思う。その夜の、その幸福をひたすらに感じていた。